占領期最大の恐怖「公職追放」:組閣直前の鳩山一郎総裁も粛清(2)(nippon.com)
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GHQは日本軍の武装解除に加え、日本国民の「精神的武装解除」を目指した。そのために欠かせないのは、日本の指導層を入れ替えること。戦後初めての総選挙を前に、GHQは自分たちに非協力的な人物を各界から締め出し、GHQに友好的な議会を作れば、占領はうまくいくと考えていた。こうして1946年正月明けの4日、GHQが極秘に立案した第1次追放指令が発出された。
指令の厳格な法令化をGHQから命じられた日本政府は、追放該当者の細目基準をGHQと折衝しながら決めた。それが同3月に発表されると、中央政界を直撃した。
戦時中の42年に行われた総選挙(翼賛選挙)で、東条英機内閣の戦争遂行政策を支持した翼賛政治体制協議会の推薦を受けた立候補者(定員と同数の466人)は当落にかかわらず、追放該当となり立候補できなくなった。推薦議員が多かった保守政党の進歩党は国会議員274人中260人が追放となり、大打撃を受けた。
幣原内閣からまた追放該当の4閣僚を出すことになった。すでに1月に5閣僚を、3月9日には阪急電鉄や宝塚歌劇団の創始者として知られる小林一三国務大臣・戦災復興院総裁(第2次近衛内閣で商工大臣だったことが追放該当)を失ったばかりだ。さらにまた、蔵相ら4閣僚が追放となれば、内閣崩壊は免れない。幣原首相はマッカーサーに頼み込み、翌月の総選挙まで内閣をかろうじて維持した。
公職追放研究の第一人者、増田弘・立正大学名誉教授はこう解説する。「GHQは総選挙で保守勢力をそぎ落とし、社会党など革新勢力に有利な政治状況を作ろうと考えていた。そこで、総選挙の立候補予定者をふるいに掛け、東条内閣の推薦を受けた者はすべて、追放対象項目の中であいまい規定のG項(軍国主義者や国家主義者)を適用し、立候補できないようにした」。こうして466人の前議員中、8割を超える381人が失格確実となり、政界は大混乱に陥った。