マツダ ロードスターになぜ魅了されるのか──クルマも男も「手放せること」がカッコいい(GQ JAPAN)

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カッコいいクルマについてのことを考える前に、「カッコいい男」について考えてみたい。 ちなみにここで「男」と書いたのは、「GQは主に男性に向けて作られている媒体だから」という以上の理由はないため、もしも不愉快であれば「人間」と読み替えていただいて結構だ。どちらにしたって、言うべき内容は同じなのだから。 エニウェイ、カッコいい男。 その定義はさまざまあるだろうが、ひとつには「積極的に手放すことができる男」というのが、確実に該当するはずだ。 物事を手放せる男のカッコよさを考えるときは、その逆の男のことを考えてみればいい。「手放せない男」の姿だ。 チームで何かを成し遂げた際のフィーは、たとえ1円でも自分の取り分を多くしたいと考え、同時に、メンバーへ割り振るべきフィーを1円でも少なくすることに、このうえない歓びを感じる男。 そこに腹をすかせた戦争孤児がしゃがみこんでいることに気づいてはいるが、自分も腹が減っているため、手持ちの握り飯はすべて食い尽くす。のみならず、「念のため念のため……」などとつぶやきながら米屋の在庫米も買い占め、自宅の蔵にしまい込む男。 そういった男の行動にも何か理由はあるのかもしれないゆえ、声高に批判しようとは思わない。 だが、もしも「あそこの彼、カッコいいと思いますか?」と聞かれたならば、「カッコ悪いですね。くっそダサい」と、吐き捨てざるを得ない。 「世界がぜんたい幸福にならないうちは個人の幸福はあり得ない」と『農民芸術概論綱要』に書いた宮沢賢治のごとき聖人になるのは、さすがになかなか難しい。だがそれでも、「自らの取り分をセコく勘定しながら死守するのではなく、積極的に、まるで捨てるかのごとき勢いで他者に与える男=手放す男」はカッコよく見えるものであり、また「そうありたい」とも思う。 さらにいえば、そういった手放す男のほうが逆に、巡り巡って「セコい男」以上の取り分を──結果的に──得ることは、ほぼ歴史が証明している。 捨てることで、得る。まぁその男が何かを捨てる目的は「得るため」ではないのかもしれないが、エニウェイ「手放す男」とはカッコいいもので、俗に言う成功も得やすいものだ。 そして自動車の世界において「手放すことで成功したクルマ」といえば、マツダ ロードスターこそが最右翼だろう。 今さら過剰な説明は必要ないと思うが、マツダ ロ

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(2020/11/22)