次期副大統領カマラ・ハリスの政治キャリアに影響を与えた「両親の存在」…父親との関係はイマイチ(ハーパーズ バザー・オンライン)
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UCバークレーのキャンパスは急進的政治と学生運動の温床で、60年代の公民権運動の底流を形作る役割を果たしていた。そうした環境の中でシャマラとドナルドは出会った。
経済学の博士号取得を目指していたドナルドは、学校外で学生たちにアメリカと英国の植民地だった自国ジャマイカは少数の白人が“地元生まれの黒人エリート”を支えているという類似点があることについて話したと、『The New York Times』紙で振り返っている。
その後、当時栄養学と内分泌学の博士号取得を目指していたシャマラがやってきて質問した。彼女は上級公務員の子どもだったため、インドにおける英国植民地システムに対する考え方は苦労を知らないものだったが、彼女はもっと彼の話を聞きたがった。「私にはとても興味深く、魅力的と言ってもいいわ」と。「それから、僕たちはまた何度も話をするようになった。その後はご存知のとおりだ」と彼は語った。また、彼女は学生集会に参加し、男女両方のグループで誰よりも目立つ存在だったという。
ドナルドは、英国植民地政府から名誉ある奨学金をもらってUCバークレーで学びたいと希望する学生は珍しかったという。当時、奨学生のほとんどは英国の大学に進んだからだ。「世間知らずなことに、遠くから見ると、アメリカは人種的にも民族的にも複雑な人々が混じり合い生き生きと力強く発展している社会に思えた」。その後、学生活動家が公民権運動のため南部に行くという記事を読み、彼は虜になった。「この大学についての情報を調べて、ここに行くべきだと確信した」
一方、シャマラは生化学者になりたいという夢を持っていたが、英国が創設したレディー・アーウィン大学では彼女(とインドの女性)は家政学の学位しか取れなかった。彼女の兄ゴパラン・バラチャンドランは「父と私は彼女をめちゃくちゃからかったものです。『家政学で何を勉強するっていうんだい? ディナー用の皿のセッティングの仕方を教えてくれるのかい?』と。彼女は怒り、笑っていました。『私が何を勉強するか知らないくせに』とよく言っていましたね」と『The New York Times』に語っている。
後に彼女は、家族の驚きをよそに自分でUCバークレーに出願し、合格した。「父は心配するばかりでした。家族の誰も外国へ行ったことがなかったのです。父は『アメリカに知っている人は誰もいない。