光秀はどう関わったのか? 織田信長による比叡山焼き討ちの真相【麒麟がくる 満喫リポート】(サライ.jp)

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元亀2年(1571)9月、織田信長は世に名高い「比叡山焼き討ち」を実行した。信長の伝記の決定版で、史料的価値も高いとされる『信長公記』によれば、根本中堂や日吉大社をはじめとする堂舎、僧房、経蔵など、すべての建物が焼き払われ、一山ことごとく灰塵に帰した。四方から攻めかかる織田軍は、僧侶、俗人、老若男女を問わずことごとく首を斬り、目も当てられぬ有様だったという。 比叡山の東に位置する宇佐山城を任されていた明智光秀は、このジェノサイド(大虐殺)に批判的で、信長に焼き討ちの中止を諫言して不興をかい、それが信長との信頼関係に影を落とし、やがては本能寺の変に至ったとの「解釈」もなされ、そのようなストーリーの小説、テレビドラマも数多く生み出された。 しかし、光秀の対応も含めて、この比叡山焼き討ちにはいくつもの疑問が呈されてきた。 まず光秀の対応についてだが、焼き討ち直前の9月2日、光秀が西近江の国衆・和田秀純に宛てた手紙が注目されている。和田氏は、信長に協力してくれた地元の有力者で、光秀にとっても、ぜひ味方につけておきたい人物だ。 この手紙のなかで、光秀は最近の戦況や今後の方針について報告しているのだが、そのなかで「仰木村などは〈なで斬り〉にしよう。すぐにわれらの思い通りになる」だの、信長に敵対して一向一揆の拠点となった志村城に対し、信長が「干殺し(兵糧攻め)をなされた」といった、不穏な文言を記しているのだ。 これは、信長軍の戦果を誇ると同時に、「敵対すると、こうなるぞ」という恫喝の意味も含んでいるように思われる。 同じ文中で、光秀は和田氏や、和田氏と同じく信長に帰服した八木氏という国衆に対し、くどいほど礼を述べている。一方で織田軍団の中核武将としての強面ぶりをアピールし、一方でもみ手をするように懐柔する。光秀は比叡山焼き討ちを控え、慎重かつ強硬に地元の国衆に応対していたのだろう。どう考えても、比叡山攻めに積極的にコミットしていたとしか思えない。 しかも、比叡山焼き討ちが実行に移された後、光秀は信長から近江国志賀郡の支配と、京都にあった比叡山領の管理を任されるという抜擢人事を受け、さらに自らの新たな居城、坂本城の築城を許されている。 坂本城は、翌元亀3年(1572)にはほぼ完成したとみられる。主君の信長が安土城を築いたのは、その4年後の天正4年(1576)だが、す

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(2020/11/22)