【車いすバスケリレーインタビュー 女子Vol.12】石川優衣「プレーヤーとしてのスイッチを入れたU25世界選手権」(バスケットボールキング)
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高校時代、健常のバスケットボール部に憧れを抱き、いつしか「自分もやってみたい」と思ったという石川。その気持ちを知った体育の先生から紹介してもらったのが、車いすバスケットボールだった。大学入学後、意を決して地元の女子チーム「ELFIN」の練習を見学に行き、その日のうちに加入を決めた。
しかし、実際にやってみると、最初は面白さよりもとまどいの方が大きかった――。
石川が車いすで生活をするようになったのは、中学1年の時。体育の授業中に突然、体に激しい痛みが走り、病院に運ばれた。診察の結果は、脊髄炎。その日から歩くことができなくなった。入院中は、特別支援学校に通いながら治療やリハビリを行っていた。その時、周囲には自分よりも重い障がいの生徒がたくさんいた。そのため、自分の障がいは軽い方だという認識があった。
ところが、車いすバスケでは石川の持ち点は最も障がいが重い1点台。“ハイポインター”と呼ばれる選手たちの動きがまったくできない自分に、ショックを受けた。
「初めてバスケ車に乗った時は、日常用の車いすよりも軽くてスピードが速く、それまでになかった風を切る感覚がすごく気持ちが良くて、“楽しいな”と思ったんです。でもいざやってみると、ハイポインターの人たちと比べて、自分はスピードも遅いし、なかなか上達しなくて……。正直、やめようかなと悩むこともありました」
それでも続けていくうちに、気持ちは変わっていった。
「最初はハイポインターが得点を決めるシーンばかりに目がいっていたのですが、その得点はローポインターが相手にピックをかけたりして作りだしていることがわかり始めたんです。そしたら、同じ持ち点の先輩たちのプレーがかっこいいなって思うようになって。自分もそんな“縁の下の力持ち”的なプレーができるようになりたい、と練習にやりがいを感じるようになりました」
一方、昨年1月、女子U25日本代表候補としてオーストラリア遠征に行った際、石川はこう語っていた。
「今後も、車いすバスケを続けたいと思っています。ただ、“趣味”の範囲でとどめるか、それとも“競技”として挑戦していくかについては、まだわかりません」
石川の気持ちに変化が訪れたのは、その半年後のことだった。