襲ってきた男を刺した〝罪〟200年の間に起きた「生き人形」の変化「貞操の象徴」から「意思貫く存在」へ(withnews)
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愛媛県立図書館の閲覧席で、茶色く色あせた薄い本を開きました。郷土史家の故・景浦直孝氏が書き留めた1942年発行の古い本で、貸し出し禁止のシールが貼ってあります。
墨で手書きされた古書を読むと、次のような話が書かれていました。
<――江戸時代後期、松江は、南予(愛媛県南部)にあった大洲藩士・井口瀬兵衛の次女として生まれました。父はわけあって大洲藩を免職となります。一家は、松山に移り住み、暮らしを支えるため、父は道場で剣術を教えていました。その道場に通っていた男が、松江を気に入ります。松江に言い寄り、しつこくつきまとうようになった男は、ある日、父の留守中に家に押し入り、松江に襲いかかりました。松江は、抵抗の末、隠し持っていた脇差しで男を刺し殺してしまいます。帰宅した父に、松江はこう言いました。「いかに悪人であっても、人を傷つけた罪は許されない。首をはねて下さい」。父は娘の望みを聞き入れ、浜辺で松江の首をはねました。松江18歳。文化10(1813)年12月8日の夜でした。父娘の壮絶さを思い、当時の松山藩主は、葬儀の資金として米を贈り、松山藩に仕えるようすすめましたが、父はそれを断りました。その後、大洲藩主が領内に住むことを許し、一家は松山を去りました。>
15分ほどで読み終わったエピソード。なんだか、時代劇にありそうな話です。
その松江さんの墓が、いまも三津浜地区にあるというのです。早速向かいました。
道中、歩道橋の看板に、「松江町」の文字を見つけました。200年後の町名に、松江さんの名が残っていました。
墓は公園の一角にあります。立派な石のお墓です。松江さんの話は後世に語り継がれ、1903(明治36)年には、松江さんのことを記した石碑が墓のそばに建てられ、残ってました。