小宮山悟さんは宴席でもブルペンでもリリーフ陣を支えてくれた【小林雅英 ブルペンから走り続けた13年】(日刊ゲンダイDIGITAL)

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【小林雅英 ブルペンから走り続けた13年】#41 「おい、コミ!」 「はい、いま行きます!」 「コミ」とは言わずと知れた大投手、小宮山悟さん。そんな小宮山さんを呼びつけ、空のグラスを突き出し、ビールをつがせたのは……なんと、まだペーペーの若手です。  なんで若手が小宮山さんに偉そうにしているのか? なんで小宮山さんも怒るどころかペコペコしているのか?  実はこれ、僕が現役時代に行われた投手会のひとコマです。どの球団も共通していると思いますが、ロッテもキャンプ中に投手陣を集めた投手会をやるのが恒例で、「このメンバーで1年間、頑張ろう」と結束を高めていました。  その投手会で酔いが回ると始まるのが「無礼講タイム」です。その時その時でシチュエーションは違いますが、「投手全員、年齢順を逆にして振る舞う」というシーンがありました。冒頭のやりとりはその一幕。小宮山さんは最年長なので、一番年下の若手のように振る舞わなくてはいけないわけです。 ■嫌な顔ひとつせずに…  小宮山さんといえば、どこかとっつきにくい、いかめしい印象を持っている人も少なくないでしょう。実際、横浜に移籍する直前、僕がロッテ入団1年目の1999年はそうでした。  当時はバリバリの先発投手。前年の98年はリーグ最多の10完投、201回3分の2を投げた鉄人です。新人だった僕には近寄りがたいイメージがありました。  それが横浜、メッツを経て2004年にロッテに戻ってきたときには、驚くほどフランクになっていたのです。  お酒は一滴も飲まないのに、無礼講タイムのようなお遊びにも付き合ってくれるし、一緒にふざけたり、時には僕らの愚痴に付き合ってくれることもありました。  その一方、ブルペンでは高木晃次さんと並んで、誰よりも頼りになる先輩でした。02年のメッツ時代にボビー・バレンタイン監督の指示で中継ぎに転向。特に日本一を達成した05年は小宮山さんと高木さんの支えがあったからこそ、僕ら救援陣も力を発揮できたと言っても過言ではありません。  この連載でも以前お話ししましたが、リリーフは役割によってブルペンに入る時間が違います。しかし、小宮山さんたちは試合開始直後からブルペンに入り、先発に何かあったときのために備えていてくれる。僕らが入るまで、ブルペンを守ってくれていました。それこそ敗戦処理のような役割

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(2020/11/18)