ディスコ・カルチャー興亡記。いまこそ「栄光なき天才DJ」の記憶を(Forbes JAPAN)

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カイリー・ミノーグが11月6日に、ニューアルバム『ディスコ』を発表した。ソーシャル・ディスタンスが新しい常識となりつつあるいま今、あえて密着してナンボの場所をタイトルにするセンスには「最高」というしかない。 熱気に包まれたフロアで踊り出したくなるようなディスコの時代を、こちらのプレイリストと共にプレイバック。 ところでこの「ディスコ」という言葉がどこから来たかご存知だろうか。実はアメリカではなくフランスなのだ。1940年代の第二次世界大戦中、ナチス・ドイツに占領されたフランスではナイトクラブで生演奏するミュージシャンが不足したことで、代わりにレコード(ディスク)を大音量でかけるナイトクラブが誕生。戦後そうした店が「ディスコティーク」と呼ばれるようになったのだ。 こうしたナイトクラブの形態は、1960年代にニューヨークへと伝わり、短く「ディスコ」と呼ばれるようになった。名前が縮まった説としてイタリア語っぽく聞こえるからというのがある。当時のニューヨークの「夜の街」はイタリア系マフィアが仕切っていたのだ。 こんなこぼれ話でも分かる通り、ディスコは当初は紳士淑女が着飾って行くナイトスポットの一業態に過ぎなかった。サブ・カルチャーの発信基地としてディスコが機能するには、1970年の「The Loft」のオープンを待たなければいけない。 マンキューソの「音楽を楽しむための楽園」 いまなお語り継がれるその「The Loft」の創始者はデヴィッド・マンキューソという人物である。1960年代後半の音響と映像が一体となったサイケデリック・イベントに影響を受けた彼は、ダウンタウンの巨大な倉庫に住みつくと、そこで招待制のパーティーを開催したのだ。 招待制といっても客はビジネスマンからアーティストまでさまざま。人種と性別は多様性に富んでいた。決まったステップもなく、ひとりで自由に踊ることが許される「The Loft」は特にゲイ・ピープルの熱狂的な支持を集めるようになっていく。 「The Loft」の特異な点として未だに語られるのが、場内でアルコールや食べ物の販売を一切行わなかったことである。この英断によってマンキューソはニューヨークの厳しい風営法の網の目をくぐって、パーティーを翌朝まで続けることを可能にしたのだ。 ファンク、ソウル、ラテン、ロック、ジャズなど、ジャンルを横

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(2020/11/07)