「サード高田」長嶋監督4つの根拠 31歳での転向、翌年は最良のシーズンに(夕刊フジ)
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【あの名場面の裏側】G戦士編
1975年10月30日、巨人・長嶋茂雄監督の就任1年目、屈辱的な最下位を味わった巨人は多摩川で秋季練習を開始した。高田繁がユニホームに着替えていると、黒江透修コーチが近づいてきて「タカ、監督の考えなんだが…」と前置きし「今日からサードの練習をやってみてくれないか」と言った。
【写真】長嶋茂雄・巨人軍終身名誉監督
「えっ、サードですか」
周りにいた選手の視線が一斉に高田に集中した。
外野の守備のうまさでは球史に残る選手だといわれている。左翼線に飛ぶ当たりは2塁打になるのが普通だが、レフト高田はフェンスではねるクッションボールを取ると2塁へ矢のような送球で打った走者を刺す。このため2塁打を単打にしてしまうのである。
「クッションボールを取った位置と2塁までの距離がちょうど僕の肩にピッタリだったのでしょうね」。“壁際の魔術師”の異名がつけられたそんな外野守備の名手・高田にサードの練習をさせようというのだ。
しかし、長嶋監督は気まぐれではなく本気で高田のサード転向を考えていた。
67年ドラフト1位で巨人に入団、68年、新人王を獲得したほか日本シリーズでは最優秀選手賞(MVP)にも輝いた。
走攻守そろったクレバーな選手で、ONの先兵役として巨人のV9に貢献したが、この1~2年は成績も落ち低迷していた。また長嶋引退後、ひとつ精彩を欠くようになった王貞治への“刺激剤”として日本ハムから安打製造機・張本勲の獲得交渉中で、レフト張本の入団が決まったら高田の守るポジションはなくなってしまう。
「まだまだ、高田の打力、ヘッドワークは捨て難い。なんとか巨人でもうひと花を…」長嶋監督は考えた末、3塁手のデーブ・ジョンソンを本職の2塁に回し、高田を3塁にコンバートすることを思い立ったのである。
内野から外野へのコンバートはよくあるが、その逆は、1塁手に転向する以外まずない。しかも、新人ではなく31歳になるベテランを初めてのポジションに一から挑戦させようというのだ。
「とても無理。内野手と外野手では捕球から送球、フットワークすべて根本から違う。いくら高田が器用な選手でもこれはむちゃだ」
当然、周囲には猛反対の声が渦巻いた。
が、長嶋監督は決意を変えなかった。それなりの成算があったからだ。その根拠は4つあった。