「“カープで勝ちたい”という気持ちで残った」石原慶幸が残留表明に込めた思い【カープ一筋19年、背番号31の野球人生 vol.2】(広島アスリートマガジン)

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 長年カープの屋台骨を支えてきた石原慶幸が、惜しまれつつカープのユニホームに別れを告げる。ここでは11月7日の阪神戦で予定されている引退セレモニーに先駆けて、広島アスリートマガジン上で語った本人の言葉と共に、激動のプロ19年間を振り返る。 【写真】一時代を築いた絶対的守護神とハイタッチを交わす石原慶幸 ◆正捕手の座を奪い返し、選手会長にも就任  プロ3年目の2004年に一度、正捕手の座をつかみかけた石原慶幸だが、その後の3年間は倉義和(現一軍バッテリーコーチ)との熾烈なポジション争いに終始した。2006年オフには現状打破の一環として、新井貴浩に護摩行の同行を直訴。炎を前にしての精神修行だけではなく、課題の打撃を向上させるためオフの間から徹底してバットを振り込んだ。  その成果は次第に現れ、2007年シーズンは規定打席未到達ながら打率.281をマーク。2008年に4年ぶりに開幕スタメンの座をつかむことに成功した。また同年は公私にわたって親しい間柄だった兄貴分の新井が、FA権を行使して阪神に移籍。周囲からはプレーだけではなく、野手を引っ張るリーダー的な役割も期待されることになった。 「引っ張っていくというよりも、僕はとにかく必死でやるしかない。引っ張ることもしなければいけませんが、まずは自分がやらないといけません。口ばかりじゃダメですし、自分がやって、その後のことはそこで考えます(笑)。とにかく、やるしかないんです」(広島アスリートマガジン2008年7月号)  試合出場数を増やした2008年はキャリアハイの打点(50打点)を記録するなど随所で存在感を示した。チームは2ゲーム差の4位にとどまったとはいえ最後までAクラス争いを展開した。  2009年シーズンは開幕前にWBC日本代表に選出。チーム内では選手会長にも任命された。前年に続いて正捕手の座もキープしたが、それでも本人の中では一切の慢心はなかったという。 「毎日試合に出るために頑張っていますが、出たからといって負けてしまってはいけません。出たことに満足するのではなく、チームの勝利に貢献したいと思っています」 (広島アスリートマガジン2009年5月号)  チーム成績は変わらずBクラスが続いていたが、2010年には投手三冠に輝く活躍を見せた前田健太(現ツインズ)と最優秀バッテリー賞を受賞。扇の要としてカー

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(2020/11/06)