【藤井康雄連載コラム】イチローは人気が出てもかわいくて生意気な後輩(東スポWeb)

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【藤井康雄「勇者の魂」(14)】1994年、オリックスは3年目のイチローが210安打の活躍で優勝争いし、2位に食い込みました。イチローフィーバーが巻き起こると、女性客も増えて球場の風景が変わりました。でもその一方で周りが彼に声をかけにくくなり、彼も僕らに気を使うようになる。そうなったらチームにとっても良くないでしょ。だから僕はいろんなタイミングで食事やライブに誘ったりしてあげていました。  自宅に呼んだこともありますよ。合宿所でご飯がないという日があって、カレーを出してあげました。好物でしょ。東京遠征中も浅草に泊まっていたから六本木とかに連れて行ってあげていましたね。サインもよく頼んだねえ(笑い)。「いつでもいいから」って言って渡すんだけど、彼のロッカーには頼まれたサイン色紙が山のように積んである。申し訳なかったね。僕にとっては人気が出てもかわいくて生意気な後輩でしたよ。  僕とは遊びの話ばかりで、野球の話はほとんどしなかったし、そこは次元が違うもんね。人の何十倍も練習をしていたし、才能と努力ですよ。天性のものもあるし、子供のころから培ったものがあったと思う。地元・愛知のバッティングセンターだって毎日行くなんてできないですよ。お父さんの宣之さんがよく球場に来ていてね。神戸で会うと「藤井さん、お世話になります」ってめちゃめちゃ腰が低い人。社会人になった子供の職場に父親がしょっちゅう来るのってどうなん?って最初は思いましたよ。二軍の時からずっとスタンドに来てましたから。でもイチローがあるのはそのお父さんのおかげなんですよね。  イチローは常に同じ場所にとどまらず、変化をしていったと思います。振り子打法をやめたり、パワーをつけたり、ケン・グリフィー・ジュニアのようなフォームにしたり…。今以上のもの、今よりもっといいものを求めていました。成績が良くても満足することなく、もっといいものを探していく。毎年相手からのマークがきつくなる中、打って当たり前、というプレッシャーがあったと思う。僕らと考え方は同じでも、レベルの高いしのぎ合いをしていたでしょう。悩んだ時期もあったと思いますよ。でも僕なんかおこがましくて何も言えませんよ(笑い)。  首位打者を取るのが当たり前というふうに見られてくると、本人のなかで野球の楽しみ方がなくなってきたというか、他のものを求めるようになってい

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(2020/11/05)