とにかく気さくで心も体も大きかった横綱レスラー輪島 日本デビュー戦、記者ではなく兄貴を見守るような気持ちになっていた自分に驚いた(夕刊フジ)

【リンク先抜粋】
 【今日も一緒にプロレスを楽しみましょう!】  大相撲、プロレスで大活躍した「横綱レスラー」輪島大士さんの三回忌(10月8日)も過ぎ、地元では24日、ラジオなどで追悼特別番組「黄金の左 永遠に」が放送された。  幼なじみの中西廣さんが「小さい頃から『俺は横綱になる』とよく言っていた」と秘話を明かし、輪島さんとアントニオ・猪木さんが対談したイベントの音源を公開。2人でジャイアント・馬場さんについて語り合った様子など、興味深い内容だった。  番組の収録に、記者も東京から電話で加わり、輪島さんとのエピソードを語らせてもらったが、時間が足りなかった。  輪島さんと初めて会ったのは、レスラーデビューに向けて特訓中だった1986年の夏だった。米ニューオーリンズの空港で、馬場さん夫妻と到着したところを出迎えた。大相撲でのスキャンダル、わがままな逸話…。どんなに面倒くさい人だろう、とマイナスイメージをふくらませていたのだが、すべては杞憂だった。  子供心を忘れない豪放磊落で、心も体も大きな人だった。あっという間に「輪島ファン」になってしまった。  輪島さんを知るすべての人が「愛すべき人だった」と口を揃える通り、とにかく気さく。自分が有名人なのに「あれ、◯◯さんじゃないか。柴田君、見てこいよ」と、大騒ぎするなど、ミーハーな一面を持っていた。  周りに人がいるのが当たり前だったせいか、淋しがり屋でもあった。ノースカロライナ州シャーロットのモーテルをキャンプ地にしたときには、2階の部屋にいると、1階の輪島さんの部屋から「お~い、メシ食うぞ」と大声で呼ばれた。  日本から持ち込んだ炊飯器で米を炊き、おいしいおにぎりを自ら握ってくれた。どうやって持ち込んだのか、故郷の名物・こんかイワシを大量に備蓄していた。輪島さんと取りとめもない話をしながら過ごした時間は、何事にも代えがたい最高の思い出だ。  「ハワイに移動したらトレーニングウエア、頼むよ」。「はい、好きなブランドはあるんですか?」。「何を言っているんだ。一緒に付き合ってくれ。手伝ってくれな」…。トレーニングパートナーのことだった。  いまだかつて、こんなに楽しかった密着取材はない。家族よりも時間を共有し、仕事もプライベートも区別なく何事も語り合った。記者として、一歩引いて見つめることが絶対だが、正直、輪島さんとは身内の

続きはこちら

(2020/10/29)