【フィアット パンダ 40周年】第2回…世襲の重圧を乗り越えて[フォトヒストリー](レスポンス)

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初代フィアット『パンダ』(Fiat Panda)が発表された1980年から数えて、2020年は40周年にあたる。本企画では、歴代のエピソードと、イタリア在住ジャーナリストの筆者が過去23年の暮らしで撮影した、生活感溢れるパンダの姿をお届けする。 関連画像を見る ◆モデルチェンジを決断できない 第2回は2代目(2003~12年)である。23年にわたってショールームに並び続けた初代パンダは、先代フィアット500に比肩する戦後イタリア製国民車の地位を獲得した。しかし、生き延びさせ過ぎたというのも事実だ。フィアットは、偉大な初代の後継車ということもあり、開発へのタイミングと投資をなかなか決断できなかった。 もちろん、社外・社内から、いくつかのコンセプト提案はあった。初代をデザインしたジョルジェット・ジウジアーロ率いるイタルデザインは1992年のトリノモーターショーで『IDチンクエチェント』を公開。翌1993年ボローニャモーターショーでは、発展型である『ルッチョラ』を展示した。いずれも新時代のパンダの姿を提案したものであったが、フィアットはそれを採用しなかった。 代わりに、ルッチョラは韓国の大宇によって採用され、1998年初代「マティス」として量産化された。同車は5ドアであったことから、3ドアのみの初代パンダに不満をもつユーザー層に歓迎される結果となった。同様に、スズキ『ワゴンRソリオ』のオペル版である『アギーラ』も、パンダの市場を奪っていった。 ◆消えては現れる提案 いっぽう、フィアット社内の作品で、イタリアのメディアから「新型パンダの姿」かと期待されたのは、2000年ジュネーヴモーターショーのコンセプトカー『エコベーシック』であった。デザインは、のちにフィアット・ムルティプラや500を手掛ける社内デザイナー、ロベルト・ジョリートであった。 しかし、この意欲的なコンセプトも市販化されることはなかった。当時フィアット-ランチアの製品開発ダイレクターを務めていたウンベルト・ロドリゲスは「軽量化やリサイクル性を高度に模索したが、量産化するには、あまりに不可能な点が多かった」と2004年に筆者のインタビューで語っている。 いっぽう、のちに2代目パンダとなるコードネーム169のデザインは、フィアットのディレクションのもと、3社の外部案からベルトーネ案を選択した。イン

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(2020/10/24)