岩隈の意地感じた球界再編渦中での15勝/梨田昌孝(日刊スポーツ)

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元近鉄監督の梨田昌孝氏(67=日刊スポーツ評論家)が19日、巨人岩隈の引退を惜しんだ。岩隈1年目の00年から近鉄ラストイヤーの04年まで5年間、一緒に戦った。思いは特別だった。 【写真】近鉄祝勝会で岩隈久志は胸元にビールを入れられる(01年9月撮影)    ◇   ◇   ◇ 岩隈は近鉄バファローズの最後のエースでした。04年は球団合併の話しが持ち上がって、この先どうなるのか不安をつのらせながらのシーズンでした。チームが激しく揺れるなかでのリーグ最多の15勝(2敗)は、岩隈の芯の強さと意地だったと思います。 近鉄監督初年度に岩隈をドラフト5位で指名したのは、山本泰スカウト(8月11日没)の強い推薦でした。藤井寺球場での合同新人トレーニングで見た印象は、細身だが、腕のしなりが素晴らしかったので、モノになると直感が働いたのも覚えています。 01年はパ・リーグ優勝を果たしたが、12球団ワースト防御率4・98が示すように投手力に難があった。計算のできる投手が不足して、久保2軍投手コーチに「岩隈をはよくれ、はよくれ」と1軍昇格を促したが、まだ体ができていないことを理由に断られ続けた。 でもこちらの3度目の要請で5月下旬に上に上がってきた岩隈は、緩いカーブを駆使するなど、捕手古久保のリードもあって好投を続けてリーグ優勝に貢献した。1度だけ叱りつけたこともあったし、球質のいい、打者の手元で伸びるボールに磨きをかけてエースの座をつかんだ。 日本ハム監督だった当時のダルビッシュ対楽天岩隈の対決は見応えがあったし、日本を代表するピッチャーに育ちました。ご苦労さまと声を掛けたい。ただ近藤、坂口(ヤクルト)とラストスリーだった猛牛戦士がユニホームを脱ぐのは寂しさを感じますね。(日刊スポーツ評論家)

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(2020/10/19)