グループ2/4の活躍とグループBの善戦。世界のラリーで勝ち名乗りを上げる|サファリで開花した「ラリーの日産」 Vol.2(Nosweb.jp)

【リンク先抜粋】
サファリで開花した「ラリーの日産」 Vol.2 継続的に国際ラリーへの参戦を始めるのが1963年。これがサファリラリーで、310ブルーバード、30セドリックを擁しての参戦だった。 排気量を2497ccにアップして搭載された240ZのL24型エンジンや、コクピットなどのディティール写真を見る【写真6枚】 以後この布陣をしばらく続け、1966年にはクラス優勝(410ブルーバード)を勝ち取れるまでにレベルを上げ、サファリ以外のラリーにも参戦する積極的なところを見せていた。なかでもモンテカルロラリーへの参戦は、サバイバル系のアフリカラリーとは異なり、テクニカルなヨーロッパ型のスピードラリーへの参戦という意味で際だった価値を持っていた。  こうした流れの中で、日産車のポテンシャルが一気にレベルアップするのは、新鋭のL型エンジン搭載モデルに切り替わる時期だった。シャシー回りの設計コンセプトも一新し、当時としては革新的な仕様で設計された510ブルーバードの登場である。  これまでのラリー参戦で得られた耐久性のノウハウが、市販乗用車としての510に有形無形の形で還元され、当然ながらラリーカーとしての資質も大きくレベルを上げていた。  1968年のサファリに登場した510ブルーバードは、2年後の70年に待望の総合優勝を果たすことになるが、みごとだったのは車両規定が大きく変わった翌年のサファリで、240Zが連覇を果たしたことだった。エンジンを始めとする基本メカニズムが、510ブルーバードと共通する部分も多かったが、基本車型は変わっても日産としての体系立った技術が不変であることを世界に示したのである。  ところで、70年代初頭に持ち上がった排ガス規制は、ご多分にもれずラリー活動にも影響を与え、日産ワークスとしての活動は73年いっぱいでいったん後退することを余儀なくされていた。このタイミングは国内レースもまったく同じで、しばらく日産ワークスとしてモータースポーツの表舞台に出てくることはなかったのである。 前年、日産にサファリ初優勝をもたらした510ブルーバードと比べ、全長が+45mm、車重+35kg、逆に全幅/全高はそれぞれ-30mm/-100mmと排気量から見るとコンパクトな仕様だった。 撮影車両は1971年サファリラリーで総合優勝を果たしたエドガー・ハーマン/ハン

続きはこちら

(2020/10/10)