谷崎賞発表――『日本蒙昧前史』磯崎憲一郎(中央公論)

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『日本蒙昧前史』の時代の子供   一ヵ月ほど前のことだが、私の所属する大学の研究会で、私は生まれてから小学校卒業までを千葉県の我孫子市で過ごした、という話をした、するとその話に、哲学者の國分功一郎さんが異常に強い反応を示した、國分さんは我孫子の隣の、市の出身だった、職場の同僚となって二年以上が経つというのに、私たちは互いにそのことを知らずにいた。  昭和の四十年代から五十年代の前半にかけて、それは『日本蒙昧前史』の舞台となった時代ともほぼ重なるのだが、私たちは常磐線沿線の新興住宅街で育った。当時の我孫子や柏は、都心の企業で働くサラリーマンが住宅金融公庫でローンを組んで、家族で暮らすための一戸建てを買える場所として選択されるような、そんな街だった、私の父親は地元の工作機械メーカーに勤めていたが、小学校の同じクラスには東京の新聞社や官庁、保険会社の社員の子供も何人かいた。強引に宅地開発が推し進められても、誰も文句をいえない時代だった、田畑が潰され沼地が埋め立てられると、一瞬だけ、子供の遊び場としては理想的な、広々とした更地が出現するのだが、ほどなくそこには表札なしには区別するのが難しい、青い瓦屋根に白いモルタル塗りの壁の、似通った外観の建売住宅が並んでしまうのだ。  とはいっても周囲にはまだまだ、放課後の小学生たちを退屈させないだけの自然が残っていた、私の家の北側にも、さすがに熊までは棲んでいないだろうが、鹿やイノシシにならばばったり遭遇してもおかしくはない、奥深い森が広がっていた、夏ともなればクヌギの樹液に群がるカブトムシとクワガタを、素手で容易に捕らえることができた、友達と連れ立って、自転車を駆って訪れた貯水池では、釣り糸の先に駄菓子の酢イカを括って垂らした途端、何尾もの真っ赤なザリガニが喰らい付いてきたものだった。戦前の子供ともさして変わらぬ、虫採りや釣りのような遊びに興じていたかと思うと、日が暮れて家に帰るやいなやカラーテレビの正面に陣取って、「ウルトラセブン」や「仮面ライダー」に見入っていた、かつて島田雅彦さんが『忘れられた帝国』で描いたのよりも数年遅れではあるが、私たちもまた、田舎と都会の境界を越えて自由に往き来する子供、「郊外」の住人に他ならなかった、何しろ一駅電車に乗りさえすれば、そこにはわざわざ銀座や上野にまで足を延ばさずとも欲しい物は何でも揃っ

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(2020/10/10)