自由重んじた永遠の夢追い人 高田賢三さん死去(産経新聞)

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 4日死去した高田賢三さんは、ファッションの都パリを拠点に、最初に国際的名声を得た日本人デザイナーだ。ハッピーな空気をまとう鮮やかな色彩、ゆったりと着やすいシルエット…。西欧の伝統や慣習にとらわれない「ケンゾー」の服は、パリ五月革命(1968年)を機に、価値観の転換と自由を求める時代に寄り添い、70年代のモード界を牽引した。時は流れて99年10月、「ケンゾー」のデザイナーとして最後に開いたショーのテーマも「リベルテ(自由)」だった。  兵庫県姫路市の花街で生まれた。文化服装学院(東京)が初めて男子学生を募集していると知り、親の反対を押し切って上京。恩師の小池千枝さんから立体裁断を学び、同期の松田光弘さんやコシノジュンコさんらと切磋琢磨しながら、在学中に装苑賞を受賞した。  転機は65年。卒業後に勤めたアパレルメーカーを休職し、渡仏した。船で横浜を出てアジア、中近東、アフリカを経て欧州へ。多様な服飾文化に触れ、パリでさらに刺激を受けた。ダメ元で自作のデザイン画をブティックに持ち込むと飛ぶように売れ、5年後には自らの店をパリに構えてデビュー。雑誌「エル」の表紙に麻の葉柄のワンピースが掲載され、注目を集めた。  フォークロア(民俗調)、ペザント(農夫)ルック、重ね着…。平和の象徴「花」を多用するなど「ケンゾー」は70年代、イヴ・サンローランら名だたるデザイナーと並ぶ“台風の目”だった。が、時代に迎合しないのも高田さんだ。  80年代後半以降、体のラインにぴったり沿うボディ・コンシャスや着古した風合いの服が脚光を浴びると「自分が作りたい服と流行が、徐々に離れていった」。以前パリの自邸で取材した際、当時の心境をこう話していた。また「経営は苦手」と語り、共同経営者任せにして確執を深めたことが、自身のブランド売却を招く結果となった。  2004年、アテネ五輪で日本代表選手団公式ユニホームを担当。色柄などを選手が好きに組み合わせるという斬新なアイデアは、多様性や自由を重んじるデザイナーらしい配慮だ。  一昨年、一時帰国した高田さんを「囲む会」で「もっと日本を旅して、もっと発見したい」と話していたのが印象的だった。デザインへの情熱は衰えず、インテリア中心のブランドを立ち上げたばかり。永遠の夢追い人だった。(黒沢綾子)

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(2020/10/05)