【コラム】戦術が“オタク化”する日本。元神戸監督リージョは「トランジション」すら好まなかった(SOCCER DIGEST Web)
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昨シーズンはヴィッセル神戸で監督を務め、現在はマンチェスター・シティでジョゼップ・グアルディオラの右腕としてコーチをしているファン・マヌエル・リージョと、筆者は何度かサッカー論を語り合ったことがある。神戸のタワーマンションに招かれ、気になっている選手のビデオを大画面テレビモニターで見ながら、マテ茶を回し飲んで、3時間があっという間に過ぎた。
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リージョは世界的に戦術家として知られる。グアルディオラに師匠として心酔されていることは有名な話だし、その理論は世界でも並ぶものがないと言われる。言わば、戦術マスターだ。
しかし一つ言えるのは、リージョのサッカーへの熱はすさまじいが、少しも難しい言葉を使わないという点である。
日本では戦術がオタク化しつつある。難しい言葉を平気で使い、説明したような空気になる。用語を学ぶのは悪いことではないが、本質を理解しなければ、それは空っぽも同然の空論だ。
リージョは、「テクニックのある選手」という表現にだけでも、頭を傾げながら、「もっと丁寧な説明が必要で、好きではない」と首を横に振った。テクニックがある、とは一体何なのか?それは便宜的で、抽象的な表現と言える。神戸の選手たちならわかるはずだが、彼が使った言葉は極めて哲学的だが、同時に平易だったはずだ。
彼は戦術という仕組みそのものに没頭しない。仕組みを動かすというのが人間だと知っている。あくまで、人間対人間で心に響かないと戦術として役立たない。それには、どこにいたら優位になるのか、どうしたら優位になるのか、例えば攻撃しているときの守備を管理したポジション取りや、ボールを運ぶことで視界が変わる、という判断になるわけだが、彼はとことん現場主義だ。
トレーニングで戦い方を刷り込ませ、プレーに変化を与えられるか――。それが彼の戦術の正体だろう。体験的で、机上の空論ではない。
「トランジション」
例えば、その言葉も好んで用いなかった。それが物事をぼかす可能性があるからだろう。
リージョのようにトップレベルの戦術家にとって、トランジションは嘘を含んでいる。サッカーにおいて、あるのは「攻める、守る」、その二点のみである。トランジションは、その中間点としての事象に過ぎない。その時の切り替え