ヤンタン、ヤンリク、ぬかるみの世界…伝説の番組が生まれた法則(産経新聞)
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テレビがお茶の間の主役だった時代、家族が寝静まった深夜、若者は部屋でラジオにかじりついた。朝日放送の「ABCヤングリクエスト」や毎日放送の「MBSヤングタウン」など、関西でも各局はこぞって看板番組を放送し、ラジオは若いリスナーをとりこにした。いまも“伝説”として語り継がれる番組は多い。無難な台本や前例踏襲を嫌ったパーソナリティー、ラジオマンたちがラジオを作ってきた。その伝統はネット時代の今も引き継がれている。(上岡由美)
【表】ラジオ全盛期に人気のあった番組
■伝説的なラジオ番組
日曜日の深夜、デイヴ・グルーシンが演奏する「カタヴェント」の軽快なリズムとともに、その番組は始まった。落語家の笑福亭鶴瓶さんと放送作家の新野新さんがパーソナリティーを務める「鶴瓶・新野のぬかるみの世界」だ。昭和53年4月から約10年間、ラジオ大阪で放送された。
当時、深夜ラジオの多くがリスナーのリクエストやコーナーで構成されていたのに対して「ぬかるみ-」は2人のうだ話(とりとめない話)が延々と続く。かかるレコードは少ないが、生放送ならではのハプニングは多い。それを「ぬかる民(みん)」と呼ばれる熱心なリスナーたちは「クックッ」と笑いながら待った。
企画した当時のディレクター、岩本重義さん(76)は「ありきたりの深夜番組にはしたくなかった。鶴瓶さんも『好きにさせてくれるなら』という条件付きで承諾してくれたので、台本もないし、自由奔放でしたね」と振り返る。
55年5月には「新世界ツアー」事件も起こった。女子高生の投書をきっかけに、番組で2人が「通天閣の下をぶらついてみませんか」と呼びかけたところ、約5千人ものリスナーが殺到し、機動隊まで出動する騒動に。翌日の新聞も大きく取り上げた。
リスクを避けて無難な深夜番組への道を歩んでいたら、ここまで記憶に残る番組にはなっていなかっただろう。時には登校拒否やいじめ問題など社会問題も取り上げ、熱い議論がそのままリスナーに届いた。
スタジオの外でハラハラしながら聞いていた岩本さんは「独自のカラーを出せば、ラジオはなんぼでも伸びる要素があると思います」と語る。年号が変わった平成元年10月に番組は幕を下ろした。最後の放送が終わって社屋の外に出ると、真夜中にもかかわらず50人ほどのリスナーが待っていたという。
■深夜ラジオの全盛期