空前のスケールの天守台と石積みの完成形──東京にみつける江戸 第19回(GQ JAPAN)

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大奥があった西側に残る石室の脇を通り抜けると、本丸の北端近くに位置する天守台が間近に見えてくる。だが、東西約41メートル、南北約45メートル、高さ約11メートルというこの巨大な石積みは、明暦3(1657)年の大火で天守が焼失したのち、加賀藩主の前田綱紀が担当して瀬戸内から運んだ花崗岩で築かれながら、その上に天守をいただくことはなかった。事情を理解するためにも、ここで少し江戸城の天守の歴史に触れておきたい。 実は江戸城天守は短い間に3度建てられた。最初は家康時代の慶長11(1606)年、いまある天守台より200メートルほど南の本丸中央寄り、御休息所前多聞の向かいあたりに建てられたが、二代秀忠の時代の元和8(1622)年にはもう解体されてしまった。この年、本丸御殿を建て直すなど本丸拡張の大工事が行われ、その邪魔にもなったと考えられる。翌元和9(1623)年に完成した2代目の天守の位置は、いまの天守台に近い位置だったと考えられている。ところが、この天守も三代家光時代の寛永13(1636)年に解体され、翌年までに3代目が新築された。 この寛永度天守は、伊豆産の安山岩を積んだ14メートルほどの天守台上にそびえる約45メートルの木造建築で、計59メートル。20階建てのビルに相当する空前のスケールだった。ちなみに現存天守で最も高い姫路城で、天守本体の高さは31.5メートルだ。 5重で天守台内の地階をふくめると6階。下層から最上層まで同じ形を少しずつ小さくしながら積み上げる「層塔型」と呼ばれる様式で、壁面には黒色加工した銅板が張られ、屋根は銅瓦葺きだった。また「江戸図屏風」などに描かれた姿から、最上層の屋根には金の鯱が据えられ、破風は金の金具で飾られていたと思われる。ところが、耐火性を意識して銅板を張っていたはずの天守も明暦の大火の際、開いていた窓から火が入り、新築からわずか20年足らずで全焼してしまった。 このとき天守台の石垣も烈火で破損し、再利用が困難なので本丸御殿の正門である中雀門の渡櫓台に転用された旨を以前書いた。しかし、幕府は寛永度天守と同様のものを再建する計画だったので、新たに同じ規模の天守台を前田家に築かせたのだ。しかし、当時16歳だった4代将軍家綱の補佐役で、家光の異母弟(家綱の叔父)であった初代会津藩主の保科正之が、天守は「実は軍用には益なく唯観望に備ふる

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(2020/10/04)