[インタビュー]「私たち世代の前半は運命的な現代史ドラマの連続でした」(ハンギョレ新聞)

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 「自叙伝がとても長くなりますからね。どこかにまた書くことに備えて、ネタを残しておかなければなりませんから」  今年89歳のイ・ジョンシク米ペンシルベニア大学名誉教授が最近出版した『イ・ジョンシク自叙伝ー満州原野の少年家長、アイビーリーグ教授になる』は、著者がロバート・スカラピーノ教授(1919~2011)と共著で出した『朝鮮共産主義運動史』(Communism in Korea)で1974年にウッドロー・ウィルソン・ファンデーション賞を受賞した時点で終わる。イ教授の生涯の前半部だけを紹介した同書には、中日戦争や国共内戦、太平洋戦争、朝鮮戦争の渦で生存のために奮闘した一人の人間ドラマが描かれている。  米国のフィラデルフィア近郊の自宅で妻と暮らすイ教授と、今月22日(現地時間)午前、電話でインタビューを行った。  最も記憶に残る人生の瞬間を尋ねると、彼は「1948年に家族と一緒に中国から鴨緑江(アムノクカン)を渡った時」だと答えた。「当時は北朝鮮が中国側の国境を塞いでいました。漁船に乗って北朝鮮の地を踏んだ私たち家族を、機関銃を担いだソ連のある少年兵が受け入れてくれました。ほかの人からすると何でもない瞬間かもしれませんが、私にとって画期的な出来事でした」。渡江に失敗していたら、人生はどう変わっただろうか。彼はおそらく中国朝鮮族として暮らしていたかも知れないと話した。「私の人生は様々な面で政治的影響を受けました。若い頃に違う選択をしていたら、人生がどう変わっていただろう、そういう予測はできません。それが可能なのは小説だけです。私たちの世代の運命はまさにそういうものでした。誰かが書くとしても、あれほどドラマチックには描けないと思います。若い頃はドラマの連続でした。すべてが自分にとって一生を左右しうる出来事でした」  日本軍部が満州を侵略した1931年、平安南道价川郡北面(ケチョングン・プクミョン)で生まれたイ教授は、わずか3歳の時に“満州流浪”に出て、小学校3年生まで中日戦争の最前線だった漢口で過ごした。家族とともに平壌(ピョンヤン)に戻った1941年には、日本の真珠湾奇襲で太平洋戦争が勃発した。1年後、両親は中学入試を控えた長男のジョンシクを(彼の)叔母の家に預け、再び満州に向かった。しかし、彼は平壌第2中学校の受験に失敗し、1944年に家族が新たに定着した満

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(2020/10/03)