260年前に和協翁主が使った化粧品、「K-ビューティー製品」として復活(ハンギョレ新聞)

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 「土の中から木製の馬が出てきました」  2015年8月13日、京畿道南楊州(ナムヤンジュ)市庁の文化観光課に情報提供の電話がかかってきた。情報を提供したのは南楊州市の三牌洞(サンペドン)に住む農家のキム・ジョンヒさん。家の周りの畑を耕していたとき、漆塗りの木製の馬の彫刻などが入った石箱を見つけたキムさんは、戸惑っていたところ畑を通りかかった警察官の勧めで、急いで連絡したところだった。  現場を緊急発掘した高麗文化財研究院は、遺物を収集し、他の石箱や小さな白磁の壺、漆器などの名器、硯なども発見した。王族の墓の跡だった。しかし、発掘費用を調達する方法が見当たらなかった。  1年待ち、文化財庁の支援の下、再調査に着手した研究院側は“大当たり”を引いた。遺跡は、18世紀の朝鮮王朝の英祖王の三女で、米びつに閉じ込められて死んだ思悼(サド)世子(1735~1762)の実姉の和協(ファヒョプ)翁主(1733~1752)が移葬される前の最初の墓(初葬地)だった。和協翁主は10歳の時、領議政の申晩(シン・マン)の息子の申光綏(シン・ガンス)と結婚した後、わずか9年ではしかにかかり亡くなった非運の女性だった。墓中には父の英祖が娘の死を悼む文を刻んだ誌石(死者の人的事項と情報を記録し埋めた平たい石)や青華白磁盒など当時の王室女性の化粧品セット10点、日本製の青銅鏡などが大量に出土した。  当時のキム・アグァン室長を始めとする発掘団は、灰槨で封じた墓の中の3番目の石函の中から腐食した絹の布に包まれた青華白磁の化粧品容器を大量に発掘し、非常に興奮した。キム室長は日光に露出すればすぐに毀損されるだろうと直感し、ただちに服飾史の研究機関である檀国大学の石宙善博物館に連絡した。すぐに駆けつけた博物館の研究者たちと1時間ほどで速やかに収集し、恒温・除湿装置に入れ、国立古宮博物館に引き渡すことができた。  さらに1年が経過した2017年3月、国立古宮博物館が公開した化粧品容器10点の分析結果は、かなりショッキングなものだった。手のひらの大きさの青華白瓷八角壺に入っていた液体を拡大してみると、数百匹の黄アリの死骸が検出された。なぜ黄アリを使ったのかは明らかにすることはできなかった。顔のパックの効果がある細かい砂、蜜蝋と有機物を混ぜたクリーム、口紅のように塗る朱砂の粉、炭酸塩と滑石を混ぜたファ

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(2020/09/27)