ニスモ創設のきっかけは、1982年10月2日のWEC富士6時間レースの参戦のポルシェ956。日本のモータースポーツ界に衝撃を与えた1台|日産グループCジェネレーション Vol.1(Nosweb.jp)

【リンク先抜粋】
日産グループCジェネレーション Vol.1 1982年10月2日。 日本のモータースポーツ界に衝撃を与える重要なレースが開催されていた。この年から施行されたグループCカー規定による、WEC富士6時間レースである。 圧倒的な速さを見せた956、プリンスそして日産がル・マン24時間レースを目指し開発に着手したR380など【写真5枚】  なかでも、この新規定に合わせてポルシェが開発した「956」は、他のグループCカーを足元にも寄せ付けぬ完成度の高さを見せ、日本のレース関係者、ファンに対して強烈な次元の違いを焼き付けていったのである。  折しも、日本のレース界は長く続いた排ガス対策の制約から解放され、やっと再構築の1歩目を踏み出し始めたばかりの状態で、いわば、鎖国状態から開国したとたんに、見たこともない黒船に出くわしてしまった、といったところだろう。  ちなみに1982年の日産はといえば、宣伝部(大森分室配)を軸とするシルエット・フォーミュラが3台揃い踏みとなった段階で、技術面でいえば、ターボ制御に悪戦苦闘していた時期だった。世界的な動向で言えば、すでにシルエット・フォーミュラ規定は終わり、スポーツカーレースはグループCカー規定、ツーリングカーレースはグループA規定で新たな幕を開けようとしていた時期である。  1960年代終盤から70年代初頭にかけて、R380でル・マン、R383でCAN-AMを目指していた日産は、オイルショックや排ガス対策によってレース活動の中断を余儀なくされていたが、社会環境が許せば、再び世界を目指したいという思いが強くあった。こんな状態で目にしたポルシェ956の存在は、ショックであったと同時に強烈な刺激剤としても作用した。その感覚は、18年前スカイラインGTでポルシェ904に敗れ、R380を志したプリンスの技術陣とまったく同じであったに違いない。  しかし、この時点で日産には専業部門としてのレース部門はなく、追浜の特殊車両実験課が技術開発と技術支援、大森(宣伝3課)が日産ユーザー向けの実動部隊、レース活動そのものは個々の日産系ユーザー(チーム)が行うかたちで展開していた。スーパーシルエット時のハセミモータースポーツ(長谷見昌弘)、インパル(星野一義)、セントラル20(柳田春人)などである。  こうした状況のときに、グループCカーに

続きはこちら

(2020/09/21)