マセラティの救世主になるはずだった「ボーラ」とは?【THE CAR】(くるまのニュース)

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 ボーラ誕生の前夜。1960年代後半のマセラティは、30年近くにも及んだオルシ家の支配から離れ、新たにシトロエンというパトロンを戴いていた。  オルシ・マセラティの末期から企画された華々しくも馬鹿げたモデル展開、すなわち、「3500GT」を親として共通するひとつのFRプラットフォームを使って、6車種(「クアトロポルテ」、「ギブリ」、「セブリング」、「ミストラル」、「メキシコ」、「インディ」)を展開するという試みは、後を引き継いだシトロエンにとっても、非常に厄介な戦略であったに違いない。  打つ手をなくしたオルシ家が「高級新型車手形」を乱発して必死に現金を作ろうとした、といえなくもない。焦りともいえる戦略を選択せざるをえなかった背景には、すぐご近所に、同じ県の隣町に生まれたランボルギーニの存在があったのではないだろうか。  そう、猛牛がいたく刺激したのは、跳ね馬などではなく、海神ネットゥーノ(ネプチューン)であった。  ランボルギーニもまた、1960年代当時、FRの豪華で高性能なGTカーシリーズを展開しており、しかも(マセラティの8気筒よりもインパクトのある)12気筒エンジンを積んでいた。ランボルギーニが、スポーツカー界のロールス・ロイスを目指すという初期のコンセプトは、確かにマセラティのそれと似通っていた。  マセラティの創業は1914年のことであり、ランボルギーニ誕生から遡ってちょうど半世紀前という計算だ。  我が朋は2倍の歴史をもつブランドである、という強烈な自負心があったことは、想像に難くない。フェラーリが存在することすら既に目障りだというのに、さらに近所から新興メーカーがいきなり出現し、ネプチューンの上を目指すという明確なコンセプトをもって、商業的にはともかく、商品的には確かにそれを達成しつつあるという事態は、マセラティ経営陣の自尊心をいたく傷つけたことだろう。  しかも、1960年代後半のランボルギーニには、フェラーリさえ当時まだ実現できずにいた、12気筒ミドシップスポーツカーの「ミウラ」というフラッグシップモデルさえ存在していた。ミウラの計画が、新興メーカーとしていっそう目立つための方便からスタートしたにせよ、このクルマが実質的にフェラーリを刺激し、同じように「ないものねだり」の状況にあったマセラティをも、大いに焦らせたのだった。  マセ

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(2020/09/20)