アレッサンドロ・デ・トマソとは何者であったのか? ──イタリアを巡る物語 vol.7(最終回)(GQ JAPAN)
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フォードは1973年にはカロッツェリア・ギアとカロッツェリア・ヴィニヤーレのブランドとデザイン開発部門だけを手元に残し、パンテーラの製造に関わる施設を治具ごと全て破壊した。もうパンテーラを2度と作ることのできないように……。しかし、アレッサンドロは“魔法使い”である。何事もなかったかのように、デ・トマソ・グループのトップに再び収まり、パンテーラは1993年まで作り続けられたのだ。
アレッサンドロのアタマの中にこの筋書きは既に出来ていたようだ。フォード傘下にあり、アレッサンドロ自身が解雇されたデ・トマソ・アウトモビリとは別に、新たにデ・トマソ・モデナと称する法人をこっそりと立ち上げていた。そこでアレッサンドロはフォードから解雇されたメカニック達(といっても、元は自分の雇っていた者達だが)を受け入れ、活動を再開した。
そんなことが出来た一つの理由はアレッサンドロに有利だったフォードとの契約条件による。契約によれば当初からパンテーラの北米における販売権をフォードが持ち、ヨーロッパをはじめとする他の地域をアレッサンドロが保持することとなっていた。であるから、大手を振って北米以外でパンテーラを販売することができた。
もう一つの理由は、モデナ流のクルマ作りの作法だ。パンテーラ・プロジェクトの終了に関して、フォードはモデナ流の“魔法”を少し甘く見過ぎていた。製造用施設を破壊されようと、パンテーラを再び作りはじめることなど、彼らにとって何の問題もなかった。今までシャシー製造の下請けを行っていた工場が、お安いご用とばかりにボディ全体を仕上げてくれたのだ。大量生産さえ考えなければ、何とでもなった。
それだけでは終わらないのがアレッサンドロの凄いとこところだ。彼はさらに、保有していたギアの株式の持ち分をフォードへ譲渡する見返りとして、300万ドル以上のフォード株を手にしていた。結果的にアレッサンドロは、パンテーラ・プロジェクトを投げ捨てたにもかかわらず、彼自身は何も失わないどころか大金まで手にしてしまった。まさにアレッサンドロは再び“煙を売った”のだった。