考察・枝野流 「番頭」からリーダーへ…拒絶していた野党再編(産経新聞)

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 この日がすべての始まりだった。  平成29年7月29日、さいたま市大宮区のコンベンション施設。民進党憲法調査会長(当時)の枝野幸男は、地元で定期的に開いている集会をある決意の表明の場に選んだ。  「やりたいことを実現するには、リーダーとしてやらせていただくことが一番適切だと判断しました」  民進党では2日前、党代表だった蓮舫が電撃的に辞意を表明していた。その後継を決める代表選に枝野は名乗りを上げたのだ。  枝野といえば、元副総理の岡田克也、元外相の前原誠司らと並んで「民主党七奉行」と称され、民主党・民進党の顔といえる政治家の一人である。ただ、「リーダー」の経験は乏しく、官房長官、党幹事長など、トップを支える「番頭」の役回りが多かった。  「実はですね、ガラにもなく緊張しています。政党のトップリーダーに手を挙げる覚悟には、ナンバー2とは質が違う重さがあるんだなとひしひし感じて、ちょっと戸惑っています」  集会の終盤、枝野は照れくさそうに笑った。  代表選は枝野と前原の一騎打ちとなり、9月1日に投開票された結果、502ポイント対332ポイントで前原が快勝した。初当選同期、しかも所属政党の遍歴も同じ2人の対決として注目を集めた戦いだったが、代表選がその後の民進党分裂劇の序章となることは、まだ誰も予期していなかった。  代表に就いた前原は、翌10月の衆院選をにらみ、東京都知事の小池百合子が率いた希望の党への合流を主導する。  一方、合流構想に距離を置いていた枝野は、衆院選公示が8日後に迫った10月2日、立憲民主党結党を表明した。希望の党から「排除」を受けた民進党出身者らが結集した立憲民主党は衆院選の台風の目となり、追加公認も含めて55議席を獲得し野党第一党へと躍り出た。  「枝野立て」-。合流騒動の渦中、こんなハッシュタグ(検索目印)を付けたツイッターの投稿が相次いだ。希望の党を軸とする野党糾合を疑問視する有権者たちは、その民意の受け皿作りを枝野に求めたのだ。  「排除」された立候補予定者による新党が結成されるのは自然な流れだとしても、その党首として枝野を推す声が広範に湧き起こったのはなぜか。最も大きな理由は、直前の民進党代表選を通じて「前原の対抗馬」という印象が広く定着していたことだろう。  「結果として代表選が衆院選の地ならしになった。代表選に

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(2020/09/05)