日本人初の海外メジャー出場は1932年/残したいゴルフ記録(ゴルフダイジェスト・オンライン(GDO))
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対抗戦はバンクーバーでスタートし、70日間をかけて米中部から南部、そして東部へ。トレーラーバスと鉄道を利用する巡業の旅。試合が終わると立食パーティに参加し、次の都市へ移動するという過密スケジュールだった。42都市で42戦が行われ、日本の25勝13敗4引き分けという好成績。だが、地元プロとの親善マッチは日本が圧勝したが、日米トップがガチンコで争う団体戦はアメリカが圧倒的に強かった。
そのさなかの1935年6月、「全米オープン」は参加162人(アマ23人)により、全米屈指の難コース、オークモントCC(6981yd/パー72)で行われた。
第1日、中村と宮本の「82」が日本勢のベスト。全員グリーンの速さに驚いたが、2日目は中村が「79」と日本勢で唯一の70台をマークし、「161」で予選を通過した。決勝ラウンドに進出したのは中村ただ一人。そして、これが日本人初の海外メジャー予選通過となった。
最終日36ホールの決勝ラウンドに入り、中村は午前の第3ラウンドで「78」と気を吐いたが、最終ラウンドは「86」。3日間で37オーバー「325」ストロークの58位。”大した成績ではない”などと言ってはいけない大健闘だった。
大会は、優勝者のサム・パークス(米)が11オーバーという、史上まれにみる難しさ。この年、第2回「マスターズ」でプレーオフを制して優勝したジーン・サラゼンも18オーバーの6位。安田キャプテンは「70台を2回も出した58位の中村兼吉は大変な健闘であった」と、自分のことのように胸を張った。