幻の「セコイア州」を提案した歴史、米国先住民が判決に歓喜した理由(ナショナル ジオグラフィック日本版)
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1830年、議会は「インディアン移住法」を可決させた。この法律は、南東部の先住民部族に西部の土地を与える代わりに、先祖代々彼らが住んできた土地を明け渡すよう求める権限を、時のアンドリュー・ジャクソン大統領に与えた。五部族は、ほぼ強制的に様々な協定に署名させられた。その中のひとつ、1833年の協定では、「全てのクリーク族に永久的な居住地」を保証することが約束されていた。
先住民の多くは抵抗することなく移住に応じたが、なかには銃を突きつけられて家から追い出された者もいたという。1830~1850年の間に、約10万人の先住民が故郷を追われた。この強制移住は、後に「涙の道」と呼ばれた。
1000キロ以上離れた移住先は「インディアン準州」内の、現在のオクラホマ州中央部と東部にあたる一帯だった。そこには既に21の部族が住んでいたが、文明化五部族は彼らのすぐそばに定住し、新たな生活を始めた。その後も長い年月をかけて、連邦政府は次々に先住民の土地を獲得し、インディアン準州は今のオクラホマ州の大きさにまで縮小した。
1880年代、連邦政府が移住政策から割当政策へと方針転換したことで、準州はさらに縮小した。部族政府が管理していた共有の土地を細かく分割して先住民個人の所有地にすることで、先住民たちを白人社会へ同化させるのが狙いだった。
五部族はこの政策から除外されていたが、オクラホマ西部に住んでいたその他の部族の土地は、細かく切り分けられて個人に与えられた。ところが、土地を与えられた多くの先住民は、結局それらを白人開拓者や米国政府へ売り渡してしまった。
白人たちはまた、オクラホマ州中央部にある8000平方キロの「未割当地」と呼ばれる土地も手に入れようとした。ここは、1861~1865年の南北戦争で南軍について戦ったマスコギー族とセミノール族の土地だったが、政府がそれを強制的に譲渡させていた。ブーマーと呼ばれた入植希望者たちがこの土地に居座り、その後数年間のロビー活動の末、連邦政府は1889年に土地を白人に開放することに同意した。
ニュースを聞きつけた5万人の白人たちがオクラホマへ押し寄せ、土地が開放されるのを待った。1889年4月22日正午、人々は一斉にスタート地点から駆け出し、自分たちの土地を確保した。こうしてわずか1日で、約1万1000の自営農地が誕生した(