灼熱――評伝「藤原あき」の生涯(115)(新潮社 フォーサイト)
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謎の美人占い師と言われる黄小娥(こうしょうが)が「藤原あきが死ぬ日」と予言する、昭和42(1967)年8月8日がやって来た。
早朝からうだるような暑さで、夏に弱いあきにはとりわけ厳しい1日が始まる。
国鉄お茶の水駅前、東京医科歯科大学付属病院8階の10畳ほどの個室には、「藤原あき」「中上川アキ」と2つの名前が出ている。
朝7時半ごろあきは、
「今日は気分がいいから、からだをきれいにしたいわ」
と言いだし、看護婦に手伝ってもらいながら全身をふき、髪をきちんと結いなおした。
そして自ら薄化粧をほどこした。
たかが占いだと思うようにしたが、されど占い。この日がどうしても気になる秘書の飯島は、藤山愛一郎と資生堂の岡内社長には、
「ご都合がついたら今日はぜひあきさんのところに来てほしい」
と連絡をつけておいた。
夕方5時半になるとあきは飯島に、
「もう今日は帰って、子供と遊んであげなさいよ」
と話す。
そう言われても黄小娥の占いでは今日の夕方、潮の引く6時から6時半が危ないと言われていたので、とても帰ることなどできない。
そうこうしているうちに6時になる。
するとあきは、突然に胸を押さえて苦しみだし、6時10分には意識不明におちいった。
島本教授ともう1人の医師が人工呼吸などの処置をほどこした。
すると7時には意識が回復した。
懸命に手をさする飯島にあきは、
「あなたの手は熱すぎるけど……熱があるんじゃない……」
そういうあきの手にはあたたかみが失われていた。
息子夫婦、宮下との娘・和子、孫たち、資生堂社長の岡内、藤山愛一郎の秘書、そしてあきの秘書たちがベッドを取り囲む。
「しっかり! 元気を出して!」
枕もとで呼びかける息子。
「……お水を、ちょうだい……」
とぎれとぎれの声をふりしぼろうとするあき。
夜の10時半になると、再び苦しみだし、そして11時23分に息を引き取った。
あきがこの世から旅立った。
あと2日で満70歳になるという日だった。
飯島は美しい死に顔だと思った。
もうあきが苦しまなくてよいのだという安堵と同時に、あきの人を愛する情熱、そしてあきに備わる伝統の作法や膨大な知識というものは、死んだらいったいどこへ行ってしまうのであろうかと、悔しくも呆然とし