広島原爆75年「平和の重みかみしめる」和歌山・中尾元さん(産経新聞)
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広島への原爆投下から75年となる6日、広島市で開かれる平和記念式典に和歌山県内からは有田川町田角のミカン農家、中尾元(はじめ)さん(62)が県遺族代表として参列する。父親は当時、広島で軍に所属し、被爆地の救援に尽力した。「平和な時代にうまれた人たちは、ほんま結構なもんや」。父親が生前語っていた言葉を胸に、式典で改めて平和の重みをかみしめる決意だ。(西家尚彦)
父親の宗夫さんは大正14年、田角のミカン農家に生まれた。昭和19年、軍に招集され、海軍の拠点だった広島県呉市に駐在した。
原爆投下後の広島市に入り、負傷者を収容所に連れて行ったり、遺体を火葬場に運んだりする任務にあたっていた。
宗夫さんは終戦後も、長らく被爆の体験を家族にも詳しく語ろうとはしなかった。
宗夫さんは直接の被爆は免れたが、残留放射能を浴びたとして昭和55年、被爆者健康手帳が交付された。
元さんが宗夫さんから被爆の話を聞いたのは、手帳が自宅に届いた22歳の時だった。
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話によると、駐在先の呉市は昭和20年当時、米軍から度重なる空爆を受けていた。宗夫さんは7月、戦地の沖縄に向けて出港する輸送船に乗る予定だったが、空爆で撃沈し、出港が取りやめになった。
そして8月6日、広島市に原爆が投下された。呉市の山中で軍事訓練中、爆音とともに空に閃光(せんこう)が走り、きのこ雲が上がるのが見えた。甚大な被害が次々と報告され、救援に向かった。
「全身の皮膚がただれた状態で、市中心部の川岸で水を飲もうとして息絶えている人たちを何人も火葬場に運んだんや…」
宗夫さんの話には、少ない言葉の中にも、生々しい証言が含まれていた。
元さんは「父にとって当時の記憶を呼び覚ますことは苦痛以外になかったのでしょう」と振り返る。
宗夫さんは終戦後、家業のミカン栽培に従事。元さんも高校卒業後、家業を手伝った。
宗夫さんが亡くなる数年前、しみじみと口にした言葉が今も不思議と記憶に残っているという。
「呉の兵舎から山間に仰ぐ月が、自宅の窓から見る月と風情がよく似ていて、そんな時はほんま故郷を懐かしく思ったもんや」
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そんな宗夫さんの思い入れのある広島を、元さんは平成29年、地元住民らと一緒に訪れたことがある。広島市の原爆資料館や呉市などを訪れた。