癒しの温泉文化-「令和の時代」の万葉集(20)(nippon.com)
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「湯治」「湯治場」といっても、今の若い人には、わからないだろう。病気治療のために、長期間、温泉場に滞在することのできる人など、滅多にいない。世の中は、ますます忙しくなって、二、三カ月湯治に行ってきますなどとは、口が裂けても言えないだろう。
コックを捻れば、お湯が出るようになったのは、この五十年のことである。私の子供の頃は、薪と石炭で風呂を焚いていた。「風呂を焚く」という言い方も、今では死語となっている。かつては、温泉は今よりも、もっともっと大きな社会的機能を有していたのである。だから、時々の権力者は、温泉を自ら管理して、臣下に温泉に入る権利を与えていたのである。唐の都長安の華清池も、そういった国家管理の温泉の一つであった。浴は賜うものなのである。
九州・大宰府には、次田温泉という温泉があった。現在の二日市温泉である。大宰府の南にあたり、役人たちが、その疲れを癒していたのであろう。
最愛の妻を亡くした大伴旅人は、この温泉で、その傷心を癒したようだ。その時に作られたのが、この歌である。癒しの温泉文化の歴史は、意外に古いのである。