デザイナーの枠超え、闘病中も「元気届けたい」 山本寛斎さん死去(産経新聞)

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 絢爛(けんらん)豪華なデザインでファッション界を席巻したかと思えば、世界各地で大規模イベントを開催して人々を驚かせ続けた。76歳で亡くなった山本寛斎さんは、デザイナーの枠を超えたマルチな才人だった。その活動の根本にあるのは人を元気にしたいという思い。闘病中も今月末のイベントに向け、「世界中に元気を届けたい」と情熱を燃やしていた。  「最終的に元気が出て、スカッとして、こんな美しいもの見たこと、過去にあったっけ、というようなことにしたいと思っています」  山本さんは平成7年、産経新聞のインタビューで、自身の作品のテーマについてこう語っていた。  デザイナーとしても、イベントプロデューサーとしても、エネルギッシュに行動して結果を出し続けた。  21歳のときにデザイナーの道を志すと、コシノジュンコさんのアトリエで夜遅くまで勤務。帰宅後に毎晩2、3時間、デザイン画の練習を行い、若手の登竜門とされる「装苑賞」を受賞して道を開いた。  1971年に日本人で初めてロンドンでコレクションを発表した際には、歌舞伎から着想した衣装と早変わりの演出で喝采を浴びた。「当時の日本人は西洋のマネが多かった。でも私は『根っこの美意識は互角だ』と思っていたし、それを証明するために海外に出たんだ」と当時を振り返っている。  山本さんの行動力はやがて、デザイナーという舞台だけでは収まりきらなくなる。40歳代になって「服のデザインにとどまっていては、死んでも死にきれない、みたいな気持ちが心の中の面積を占めてきて」とイベント演出に活躍の場を広げた。  93年にモスクワで総合イベントを開いたときには、自ら現地の高官に会って「赤の広場」の貸し出しを要望。約12万人を動員する成功にこぎつけた。  今年に入って、急性骨髄性白血病と判明。治療を続けながらも、今月31日にオンラインで開く予定の「日本元気プロジェクト2020『スーパーエネルギー!!』」を気にかけていた。  「一日でも早く退院し、“晴れ着姿のカンサイ”を皆さまにご披露したい」「世界中に元気をお届けします!!」とのコメントをイベントの公式サイトに掲載。自らと世界を鼓舞し続けた一生だった。

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(2020/07/27)