パンテーラを待ち受けていた運命──イタリアを巡る物語 VOL.06(GQ JAPAN)
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**たった2年間で販売終了を宣言
デ・トマソ・パンテーラはそれなりの紆余曲折はあったものの、1973年には年間2000台を超える北米販売台数を記録した。これはデ・トマソ・アウトモビリ(以下、デ・トマソ)がフェラーリやマセラティを凌ぐモデナ最大規模の自動車メーカーとなったことを意味した。そして、早くも次期パンテーラの開発が始められ、北米で開催されたモーターショーにてデビューを飾っていた。このショーモデルは厳しくなった安全規制に適合したパンテーラの1975年モデルであろうと皆は予測した。そう、だれの目から見ても、パンテーラは順調そのものであった。
しかし、パンテーラには思いもよらぬ厳しい運命が待ち受けていた。同年に発表された1974年モデルを最後に、たった2年間でパンテーラの販売終了をフォードは宣言したのだ。アレッサンドロ・デ・トマソとは長い間、行動を共にしていたデザイナーのトム・チャーダは、こう語ってくれた。「そのころ私はアレッサンドロがパンテーラ・プロジェクトから興味を失っていたことに気づいていた。水面下できっと何か大きな動きがあるに違いないと推測したのを覚えている。こっちは一生懸命に次期パンテーラのプロトタイプを仕上げているのに、アレッサンドロは何の意見も展望も語らない。明らかにおかしかった」と。
アレッサンドロにとってフォードとのコネクションは彼のビジネスの生命線でもあった。パンテーラ・プロジェクトのお披露目と時を同じくしてデ・トマソのF1参戦が発表されていた。パンテーラはデ・トマソF1、すなわちデ・トマソ505-38と同じフォードエンジン(こちらはフォード・コスワースのDFVだが)を搭載するというストーリーによるブランディングをもって登場、アレッサンドロはモータースポーツの世界でも一花咲かせようとしていた。しかし、1970年にはピアス・カレッジの事故死から、早くも撤退せざるを得なくなっていた。だから何よりもパンテーラを成功させ、市販車ビジネスの拡大を進めていかねばならなかった。傘下にあるカロッツェリア・ギアの力を有効活用し、パンテーラに続いて、4ドアサルーンのドゥービル、2ドアクーペのロンシャンを開発し、フォードによる販売を模索もしていたのだった。前回で述べたように、すでにデ・トマソ・グループはフォード資本傘下となっていたのだから。