「またしても」中止?(中)嗚呼、幻の東京五輪 その2(Japan In-depth)
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そう言えば、当時は猪瀬直樹氏が都知事だったか……
東京都が2020年の五輪誘致に成功したのは、2013年9月7日に開かれたIOC(国際オリンピック委員会)総会においてである。
決定の瞬間の、関係者の狂喜乱舞と、その前に行われた、滝川クリステルさんによる
「お・も・て・な・し」
という日本語を含んだフランス語のプレゼンテーションは。未だ記憶に新しい。
と言っても、当時生まれた子供がすでに小学生になっているわけで、時間の経つのは早いものだという感想も同時に持った。彼女も今や小泉進次郎・環境大臣の奥方だ。
開催都市が7年前に決められるようになったのは、実は第2次大戦後のことで、大会が回を追って大規模になり、当然ながらより長い準備期間が必要となってきたことに対応したものである。戦前は5年前に開催都市を決めていた。
前回も少し触れた、80年前の「幻の東京五輪」は、1935年のIOC総会で一度は決定したものである。ちなみに当時の行政区分は「東京府東京市」で、版図はおおむね現在の東京23区と重なっているが、35区あった。
五輪の第12回大会が予定されていた1940年は、元号で言うと昭和15年だが、当時は「皇紀2600年」として、全国的に祝賀ムードが盛り上がっていた。神武天皇の即位から2600年目だということだが、今ではこれを史実と考える人はほとんどいない(そういう珍しい女性議員がいることは、前に紹介したが笑)。
しかし当時は、大真面目に語られていたことで、たとえばこの年に実用化された最新型の艦上戦闘機(空母で運用できる)は、2600年の末尾の数字から「零式」と名付けられた。世に言うゼロ戦である。
読者ご賢察の通り、この「皇紀2600年」を記念する事業として、時の東京市長らがぶち上げたのが「五輪招致」だったというわけだ。