間に合わなかった空母「雲龍」 機動部隊再建へ旧海軍が期待を寄せた量産型空母の顛末(乗りものニュース)

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 大艦巨砲主義を標榜した旧日本海軍も、急速に進歩する航空機を軽視していたわけではありません。太平洋戦争開戦前夜、空母は重要な戦力とみなされるようになりましたが、飛行甲板が被弾すると戦闘不能になるという脆弱性をどう克服するかが問題でした。 【写真】「雲龍」では手狭だった艦上攻撃機「流星」  ひとつの解決策が、爆弾に耐えられるよう防御力を強化した重装甲大型空母を造ること。ふたつ目の解決策は、中型空母を多く建造してリスク分散を図る方法でした。具体的には「少数精鋭」の「大鳳」のような重装甲大型空母タイプか、「数は力」の「飛龍」を改良したような中型空母タイプか、という貧乏日本海軍にとっては究極の選択でした。  海軍内でも実際に部隊を動かす軍令部や航空本部は重装甲大型空母タイプ推し、建造運用コストなど行政や予算に責任を持つ軍務局や艦政本部は中型空母タイプ推しと、意見は別れていました。  対米関係が風雲急を告げる1940(昭和15)年、軍令部で研究されていた第五次海軍軍備充実計画(マル五計画)では、最終的に重装甲大型空母タイプ2隻、中型空母タイプ1隻で両者は折り合いをつけます。翌年、太平洋戦争が始まると、ハワイ作戦(真珠湾攻撃)以降の戦果で空母機動部隊の重要性が認識されるようになり、マル五計画は1941(昭和17)年の軍令部改定案で重装甲大型空母タイプ7隻、中型空母タイプ5隻と大きく増勢され、重装甲空母を重視したことが分かります。  しかし日本空母機動部隊の進撃は開戦後1年も続きません。1942(昭和17)年6月5日のミッドウェー海戦で、空母「赤城」「加賀」「蒼龍」「飛龍」の4艦が一挙に失われます。この衝撃は大きく、日本海軍は空母建造計画の大幅な見直しを迫られます。  急遽、策定された改マル五計画では重装甲大型空母タイプ5隻、中型空母タイプ15隻となり大きく中型空母に比重が移されました。この15隻が後の「雲龍型」です。最終決裁の段階で、戦艦だった「信濃」の空母改装にリソースを配分するため、雲龍型は13隻に変更されています。

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(2020/07/21)