04年8月17日アテネ五輪16強 戦う愛が卓球界を変えた 名将・西村卓二氏が明かす成長の軌跡〈後編〉(東スポWeb)

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【東スポ60周年企画 フラッシュバック(16)】卓球は今でこそ、五輪や世界選手権で日本代表選手たちの白熱したプレーをテレビ中継で観戦できるようになった。きっかけをつくったのは、元祖天才少女・福原愛の五輪デビューだったことに間違いはない。13歳の福原を国際舞台に抜てきし、一流選手に育て上げた名将・西村卓二氏(71)に聞く本紙連載「フラッシュバック」の後編は、アテネ五輪が行われた2004年にフォーカス。五輪本番の「福原が日本卓球界を変えた日」と、その4か月前にあった“強行采配”の裏側に迫った。  2004年3月、カタール・ドーハで行われた世界選手権団体戦。福原は前年の世界選手権個人戦(5月)の91位から30位に世界ランキングがアップしていた。予選リーグ1位突破がかかる香港戦で、当時世界6位の帖雅娜を撃破。決勝トーナメント初戦の中国戦でも随所に好プレーを見せるなど、成長を続けた。そして04年4月。アテネ五輪アジア大陸予選の選手選考で、西村氏は大きな賭けに出た。すでに3枠あるシングルス代表で日本は梅村礼、藤沼亜衣が代表に決定済み。残り1枠はアジア大陸予選(北京)で獲得しなければならない。その大会の日本の出場枠は1。西村氏は、国内予選会を実施せず、福原を抜てきした。  西村氏(以下西村)今考えると、思い切ったことをしましたね。ドーハの戦いぶりを見て、福原はアジア予選で勝てるという感覚を持っていた。理事会で福原の急成長を説明。伸び悩む他の選手との比較もして、賛成多数をもらった。でも「西村の独断だ!」とクレームが来ました。わかった。結果を出そう。負けたら腹を切ろう、と。北京には辞表を持って行きました。福原は知らないでしょうね。  西村氏の決死の覚悟に応えるように、福原は難敵を次々と撃破、出場を決めた。  西村 やりにくい北朝鮮もいたし、枠を取れなくてもおかしくはなかった。怖いもの知らずの福原だから良かったと思います。  このころには、代表選手らしさも身についてきた。柔道五輪2大会金メダルの谷亮子を育てた吉村和郎氏を招いて講義を聞かせたり、戦闘意識を高めるため、古代ギリシャの歴史戦争映画「トロイ」を見せたりもした。  西村 吉村さんに「柔道はベスト8で満足できない、金メダル取らないと帰ってこれないんだよ! 愛ちゃん!」って言ってもらったら「うん」って。昔は反省文が1行

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(2020/07/21)