【朝鮮日報コラム】精神分析学が必要な葬儀妨害(朝鮮日報日本語版)

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 個人であれ集団であれ、重要な人物の葬儀が行われる際には自らの本当の姿が如実に表れる。仮面をかぶれるほど心の余裕はなく、哀悼の思いを体で表現する時間も足りない。そのため一層未熟でぎこちなく、赤裸々だ。今回もそうだった。今週、われわれは二人の突然の死に直面した。大韓民国を絶滅の危機から救った6・25戦争の英雄ペク・ソンヨプ将軍が永眠した。また人口1000万人を代弁する首都ソウルの朴元淳(パク・ウォンスン)市長がセクハラ疑惑の持ち上がる中で自殺した。偶然に二つの葬儀が重なったことで、政権と執権グループの存在論的本質が表面化したのだ。  彼らには時に、正しいことと間違ったこと、あるいは善悪美醜について、同じ時代を生きる生活人と共通の分母がないという印象を受ける。彼らにはためらいのない「彼我の識別」があるだけだ。常識、倫理、道徳に関する伝承の物差しをも彼らは足蹴(あしげ)にする。高位公職者の汚職事件が起こると無条件で自分たちの側を擁護し、反対側は突き放す。そのような彼我の識別が今回の葬儀においても適用されたのだ。  17世紀の朝鮮王朝時代、孝宗と顕宗の時代に起こった「礼訟論争」を振り返ると、表向きは喪服をどれだけの期間着用するかという論争のようだが、実際は性理学の核心問題で対立する西人と南人の間で起こった政権争いでもあった。しかし21世紀の韓国の地で起こっているこの葬儀論争は、当時よりもはるかに低劣な、単なる「こちらとあちら」の戦いにすぎない。  文在寅(ムン・ジェイン)政権における最大の弊害は、韓国社会をほぼ75年前の「解放政局」に引き戻したことだ。解放直後、左翼の若者たちが右翼の人たちの自宅前に集まり、石を投げ付け、門を足で蹴り、「外に出てこい」としつこく要求した当時の様子が再現されたと感じる。国を二つに分裂させ、政治的エネルギーを得ようとする浅はかな手口にすぎないのだ。

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(2020/07/18)