ボロボロになっても…元栃煌山不器用な分こだわった(日刊スポーツ)

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清見潟(きよみがた)親方、つまり引退を発表した元関脇栃煌山(33=春日野)と最後に話をしたんは春場所前、大阪・交野市にある宿所の朝稽古後でした。 「あいつ、言うてたんですよ。ボロボロになってまでやりたくないって」 あいつ、は豪栄道(現武隈親方)で、初場所後に引退していた。同じ昭和61年度生まれの“花のロクイチ組”。子供の頃から影山(栃煌山)と沢井(豪栄道)でやり合ってきた。 昨年の初場所は、これもロクイチ組、稀勢の里(現荒磯親方)の最後の対戦相手になった。 ライバルが去った土俵で、栃煌山は頑張った。自分のために。そして、子として、父として。 18年5月30日。都内の春日野部屋で栃ノ心の大関昇進伝達式があった。部屋仲間の晴れ舞台に栃煌山も、栃煌山の父もいた。 夏場所後、後援会の行事で故郷・高知に出向き、前日に陸路、乗用車で半日かけて戻った。車中、運転する父に頼まれた。「“栃ノ心関の伝達式、ワシも現場で見てええかな?”って。まあめったにないことですから。でも“ああ、そういうのが見たいんやなあ”と思いました」 三役在位25場所、ずっと大関候補だった。幕内優勝は12年夏場所、優勝決定戦の末に逃した。当時31歳の身に大関の道は厳しくなりつつあったが、賜杯はまだまだ狙えた。父に晴れ姿を見せたかった。 17年9月11日。妻せりさんが長女稟(りん)ちゃんを出産した。 「口に含んだお茶を、顔に吹きかけられたんです。もうぶわ~って」。支度部屋では真顔でぼそぼそしゃべる記者泣かせの男が、ニコニコして声を弾ませた。年に3度は地方場所、合間には巡業もあり、都内の自宅に戻る機会は少ない。稟ちゃんは早くに「ママ」としゃべったが「パパ」は時間がかかった。 1年ほど前「嫁さんに聞いたら、テレビで俺を見たら、壁のカレンダーの俺の写真を指さすんですって。まだ、相撲はわからんでしょうけど」と少し悔しそうだった。 2度目の十両陥落で、引退を決めた。不器用な分、自分の型にこだわった。低く、速く、強く、差し身で前へ-。独特の長い仕切りも、腰をしっかり入れるため。朝稽古後は居残って、付け人相手にプラス30分、立ち合いを確認するのが常だった。 晩年は椎間板ヘルニアなど足腰の故障に苦しんだ。ここ1、2年「立ち合い? 高いです。踏み込み? 1歩目がよくても2歩目が出んかったり」が口癖だった。ボロ

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(2020/07/16)