『両国橋大川ばた』:浮世写真家 喜千也の「名所江戸百景」第68回(nippon.com)

【リンク先抜粋】
江戸の町の成り立ちに大きな影響を与えたものに「大火」がある。特に江戸時代初期の1657(明暦3)年、10万人以上の死者を出したという「明暦の大火」は、急激に成長し、過密化する都市に数々の変化をもたらした。 その当時、庶民からは「大川」と親しまれた隅田川に架かる橋は、防衛上の理由から「千住の大橋」一つだけであった。旧暦1月の寒空の下で発生した明暦の大火では、川に阻まれ、逃げ延びることができなかった犠牲者が大勢出た。そのため、第16回『浅草川大川端宮戸川』や第39回『大はしあたけの夕立』でも述べたように、1659(万治2)年に2番目の橋として「両国橋」が誕生したのである。 かつて隅田川が武蔵と下総の国境(くにざかい)だったことに由来し、2つの国を結ぶ「両国橋」という名になった。実際は徳川家康が命じた河川改修事業によって、隅田川より東に江戸川が誕生し、国境もそちらに移っていたのだが、江戸っ子たちからすれば「大川の向こうは下総」という感覚だったのではないだろうか。いずれにせよ、「両国橋」という名称は、語呂の良さも手伝って定着し、広重の時代には、その名の由来が落語でも語られるようになっていた。 明暦の大火後、江戸市中には延焼を防ぐ役目を持ち、市民の避難場所にもなる「火除け地」が随所に設けられた。両国橋の東西両側のたもとにも広場ができ、この火除け地を「両国広小路」、周辺地域を「両国」と呼ぶようになる。当初は、単に「両国」と言えば西詰め(現・中央区東日本橋)を指す場合が多く、東詰め(現・墨田区両国)は「本所両国」や「向こう両国」などと呼び分けていたようだ。 広重は、西の両国広小路からの俯瞰(ふかん)で、橋を中央に配し、隅田川上流と本所・向島方面を望んでいる。旧暦の5月28日から8月28日までは川涼みの期間で、舟遊びなどが解禁となる。暑い夏の夕方、舟を出して涼をとるのは当時でもぜいたくな遊びだったようで、庶民は水辺の風を感じに大川のほとりへと集まってくる。火除け地なので、本来常設の建物はつくれないが、川涼み期間には葦簀(よしず)張りの仮設の茶屋や露店、寄席や見せ物小屋が立ち並ぶ。すると、それを目当てに、さらに人々でにぎわい、江戸一番の盛り場となったのである。 広重は絵師の仕事に専念するまで、幕府の「定火消(じょうびけし)」として働いていた。その役職も明暦の大火をきっかけに

続きはこちら

(2020/07/16)