各国入り乱れた閉会式は東京から恒例に 日本選手の行進に「戦後復興」の足取りを感じた(夕刊フジ)

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【Tokyo1964秘録】  東京・国立競技場の上空に鮮やかな五色の輪が描かれる。航空自衛隊のアクロバット飛行隊“ブルーインパルス”によるスモークの芸術だ。  抜けるような青空に描かれた五輪マークは競技場だけでなく新宿、渋谷さらに銀座あたりからもはっきり見え、道行く人はみな仰ぎ見て「おおっ!」と声をあげた。拍手する人も。1964年10月10日、第18回東京オリンピックの開幕に日本中が湧き立った。  過去のデータから最も雨降りの少ない日を開会式に選んだというが、実際、前日は台風の接近で大雨だったのが、嘘のように晴れ渡り、ブルーインパルスの“五輪飛行”も雨天中止とはならず、開会式の華として世界中に発信された。  それにしてもこの華やかさはどうだ。参加94カ国7060人の選手が色とりどりのブレザー、あるいは民族衣装をまとって行進する。色の氾濫だ。  たった1人の“選手団”もいる。ボリビア、ギアナ、リビア…。その大部分は新興独立国だ。東西ドイツが一つに溶けあって入場する。一方、台湾はいても中国がいない。韓国の選手団の行進はあっても北朝鮮の姿はない。世界の祭典の中で分断された民族の悲劇も映し出された。  アメリカ、ソ連の大選手団に続き最後にホスト国の日本の選手団437人が現れると競技場を埋め尽くした7万5000人の観客が一斉に声をあげ拍手した。そのあまりの大歓声に音楽隊の行進曲が聞こえなくなるほどだった。  観客、テレビの前の人々はみな得も知れぬ感動に浸っている。それは戦争によって疲弊し尽くしがれきの焦土と化した日本がわずか20年にしてこの世紀の五輪を開催するまでになったことに対してだろう。一糸乱れず行進する日本選手の足取りに誰もが復興の足取りを感じ、自然熱いものがこみ上げてくるのだった。  セレモニーは続き、安川第五郎・東京五輪組織委会長、アベリー・ブランデージ国際オリンピック委員会(IOC)会長の挨拶のあと昭和天皇が開会宣言。ファンファーレが高らかに鳴り響き「オリンピック賛歌」の合唱、五輪旗が掲揚されるといよいよ聖火の入場だ。最終ランナーは広島に原爆投下された45年8月6日に広島三次市で生まれた早大陸上部の坂井義則(当時19歳)で、聖火台までの階段163段を力強く駆け上り点火した。  続く選手宣誓では各国旗手が式台に歩み寄り、日本の小野喬主将が代表して行

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(2020/07/16)