富士スピードウェイは米国志向のサーキットになるはずだった!? 国内レース黎明期の裏話とは(くるまのニュース)

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 NASCARはアメリカでインディカーやドラッグレースを凌ぐ人気を誇る、同国最大級のモータースポーツ。1994年といえば、NASCAR人気が急上昇し始めた頃です。  その後に鈴鹿やツインリンクもてぎで実現することになる、NASCARジャパン開催を計画し始めた頃でもありました。  筆者は当時NASCARとの関わりが深まり、トップチームの多くが本拠地とする米東部のノースカロライナ州シャーロットに住んでいました。NASCAR本部にはドライバーとして、また当時連載企画があった自動車レース雑誌の取材などで頻繁に訪れていました。  そうした折、1960年代初頭に描かれた、富士スピードウェイの完成予想図に出会ったのです。  その姿はまさに、NASCAR本部が隣接するデイトナ・インターナショナル・スピードウェイと同じ、1周2.5マイル(約4km)のD型オーバル(楕円)コースでした。  D型オーバルは、メインストレート(レーススタート地点がある側)部分が、ターン1からターン2、そしてターン3からターン4(最終コーナー)と同じく、路面が大きく傾斜するバンク角がある一方、バックストレートにバンク角がなく、上空からコース全体を見ると、アルファベットのDの文字に見えるのです。  1960年代当時を知るNASCAR本部関係者は1994年時点で、ジャパンNASCARという企業と契約し代表者はドン・ニコルズ氏だったと話しました。  ニコルズ氏は1960年代の日本自動車レース創世記に、海外からのレース車両輸入などを手掛けたことで知られる人物で、業界の通称は“ドンニコ”でした。

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(2020/07/10)