「恐怖は生涯薄れない」 9日で和歌山大空襲75年(産経新聞)
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米軍の空襲で和歌山市中心部が焦土と化し、一夜で1100人以上が犠牲になった「和歌山大空襲」から9日で75年。市内は戦争末期、何度も空襲に遭い、市戦災遺族会理事長の田中誠三さん(84)は母と姉を亡くした。自身も防空壕(ごう)で生き埋めになりながらも、生き延びた。これまで人前で戦争体験を話すことは少なかったが、地元小学校からの依頼を機に語り始めたといい、「爆弾で自宅が粉砕され、業火(ごうか)の合間を逃げ惑った恐怖は生涯薄れることはない」と言い切る。
(西家尚彦)
市などによると、米軍の市内への空襲は昭和20年1~7月に10回程度。中でも和歌山大空襲に先立つ6月22日の空襲は、田中さんに最も鮮烈な体験となった。
8人きょうだいの末っ子で、実家は小松原で鮮魚店を営んでいた。3歳で父親が病気で亡くなり、空襲当時は国民学校の3年だった。その日朝、家にいたのは家族5人。田中さんは兄と2人で庭にいた。
「ザーッ、ザーッという空気を押しつぶすような不気味な音が突然響いた。見上げると、もう爆弾は家をめがけて接近していた」
とっさに兄と家の敷地内にある防空壕に頭から飛び込んだが、そのまま爆風で土に埋もれ、気を失った。意識を取り戻したのは、近くにあった宗教施設。腰の強打で約2週間入院した。退院後、自宅の場所に戻ると建物は跡形もなかった。
「爆弾の落ちたところは大きくえぐられ、水たまりができていた。爆弾の破片があたりに散乱していた。ショックなんていう生やさしい感情じゃなかった」
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空襲時、鮮魚が並ぶ店先に立っていた母親は土間で倒れて死亡、姉2人も防空壕で圧死したことを後に知らされた。家を失った田中さんは、きょうだいやいとこらと当時本町にあった伯母の家に身を寄せた。
そして7月9日、和歌山大空襲に見舞われた。深夜に米軍機が大量の焼夷(しょうい)弾を落とすと、たちまち火の手が上がり始めた。伯母の家も炎に包まれ、田中さんはいとこらと、燃え盛る住宅や商店の業火の合間を縫うように北東の中之島方面へ逃げた。翌10日未明まで紀の川河川敷で身を潜めた。
各家庭の軒先には当時、コンクリート水槽の防火用水があり、「逃げる最中、あちこちで頭から水をかぶった。熱風ですぐにシャツが乾き、顔がヒリヒリ痛んだ。まさに焼けつくような熱さだった」と振り返る。