野村克也が『ID野球の申し子』古田敦也に2時間の正座説教をした理由――「怒るのではなく叱る」育成術(ITmedia ビジネスオンライン)

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野村: 「ミーティングでオレがホワイトボードに書いたことを、ちゃんとノートに書き写せ。書くことで覚えるんだ」  ワシがヤクルト監督時代、ほとんどの選手は一生懸命ノートにペンを走らせていた。しかし、あろうことか長嶋一茂は、ノートにドラえもんの絵を描いていた。  当時の野球記者が面白い表現をしていたよ。  「懐から野球の知識を繰り出す野村監督が『ドラえもん』だとすると、古田敦也がノムラ野球を具現化する『のび太』、広沢克己が『ジャイアン』、池山隆寛が『スネ夫』、栗山英樹が学級委員の『出木杉』という構図。でも、みんなが結束して敵(巨人)に立ち向かっていく」  ワシは一茂に説教したんだ。2時間半ほど。  「お前、『いっしょうけんめい』という漢字を書いてみろ。『一所懸命』か『一生懸命』か」(先祖代々の領地=1つの所=を命懸けで守ったことに由来する「一所懸命」が、「一生懸命」に転じた)。  でも、馬の耳に念仏だった。ワシの「ID野球ミーティング」「野球を通しての人間教育」がまったく響いていなかったんや。  一茂のエピソードは枚挙にいとまがない。ワシは90年ヤクルト監督就任。一茂はその前、88年ドラフト1位でヤクルト入団だ。ヤクルトレディが1本100円ぐらいのヤクルト飲料を一軒一軒お届けしている。「選手がぜいたくしていたら申し訳ない」という忖度があって、ヤクルト選手は国産車で、外車禁止。しかも新人は独身寮住まいで、事故防止の意図もあってマイカー禁止。  だが、一茂はドラフト1位入団で契約金が8000万円ぐらいだったから、国産で1番高級車だったソアラを購入して、先輩選手のひんしゅくを買ったというんや。同い年の池山隆寛、古田敦也が野球に必死に取り組んでいるのに、一茂はノンビリしていた。 江本: そんなことがあって、試合前の練習時、記者に囲まれた野村監督は、一茂の姿を見るたびに小言を言ったわけですね。「一茂よ、お前の親父はワシが嫌いで、家ではワシの悪口を言ってんじゃないのか」。  一茂は、野村監督の前を通るたびに目を合わせないで通り過ぎる。僕は言いましたよね。「野村監督、一茂はすっかり萎縮してしまっていますよ。いい加減にしてやったらどうですか」。  僕は一茂がかわいそうになって、実は自分の知人を10人ぐらい集めて全日空ホテルで『一茂を励ます食事会』を開いたんです。

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(2020/07/06)