川島永嗣が振り返る2003年ワールドユース。ついに打ち破った韓国の壁と、厚すぎた南米の壁【U-20激闘譜】(SOCCER DIGEST Web)

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 90年代以降、日本のユース世代は幾度となくアジアの壁を突破し、世界への挑戦権を手にしてきたが、そこにはこの年代ならではの課題や示唆に富むドラマが隠されている。長きにわたり、日本のU-20年代の取材を続けてきた識者が、ポイントとなった世代をピックアップし、キーマンにオンライン取材で直撃。当時のチームについて検証していく。2003年のUAEワールドユースのチームを取り上げる今回は、ストラスブールに所属する日本代表GKの川島永嗣に話を訊いた。(取材・文●元川悦子/フリーライター) 【PHOTO】1位はダントツであの選手!日本代表歴代出場試合数ランキングを振り返り! ――◆――◆――  99年ワールドユース(現U-20ワールドカップ)・ナイジェリア大会の準優勝という快挙で、「ユース年代のレベルの高さ」を世界に認めさせた日本。だが、続く2001年アルゼンチン大会ではグループリーグ敗退を喫し、再び大きな壁にぶつかった。次なる2003年UAE大会では出場権獲得はもちろんのこと、16強以上の結果を残さなければいけない……。この頃の日本サッカー界にはそんな機運が高まっていた。  2001年に発足したチームの指揮を執ったのは、田嶋幸三監督(現日本サッカー協会会長)。彼は自身が率いた2001年U-17世界選手権(現U-17ワールドカップ)トリニダード・トバゴ大会での主力だった菊地直哉(鳥栖コーチ)、成岡翔(藤枝アンバサダー)、茂木弘人、阿部祐大朗ら84年生まれ組を引き上げると同時に、83年組の川島永嗣(ストラスブール)、今野泰幸(磐田)、坂田大輔(現代理人)らを抜擢。今野をキャプテンに据え、合宿を繰り返しながら、強化を進めていった。 「当時は2002年日韓ワールドカップ直前。(フィリップ・)トルシエ監督がA代表を率いていたので、フランス人のフィジカルコーチが僕らの合宿に来てトレーニングをしてくれたこともあったし、世界大会前にはブルキナファソ遠征も行きました。田嶋さんは『世界で戦える選手になれ』と口癖のように言っていて、前線からのハードワークや1対1の激しさを強く求めていた。日本が世界で勝とうと思うなら、その部分を強化しなければいけないという信念を持っていたんだと思います」と、発足時から招集されていた川島は述懐する。  確かに2000年初頭は「世界基準」が声高に叫ばれていた時

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(2020/07/05)