巨人・松井秀喜がメジャー挑戦を表明 数年前から「5年50億円&監督手形」…必死の引き留めも初志貫徹(東スポWeb)

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【球界平成裏面史(67) 松井FA編(1)】平成14年(2002年)11月1日早朝、日本列島は騒然となった。巨人の4番・松井秀喜外野手がFA宣言し、メジャー挑戦を表明するとの一報が流れたからだ。原辰徳監督の就任1年目、日本シリーズで西武を4連勝で下してからわずか2日日の衝撃。スポーツ紙、一般紙、ニュース番組、ワイドショーと松井一色だった。 【写真】ウィーラー〝大魔王〟 ヒットが飛び出てジャジャジャジャーン!  なぜ、ここまで大騒動になったのか。もちろん、松井が巨人の4番として堂々の成績を残していたからだ。この年、50本塁打を記録したが、当時の日本記録だった55本塁打の更新や3冠王が期待された。  また、巨人の長い歴史でチームの顔が自らの意思でチームを去った例は一度もない。FA制導入前とはいえ、歴代の4番、川上哲治、長嶋茂雄、王貞治らと同様に巨人一筋で現役を終え、その後は監督就任が確実視されていた。それだけに松井がYGマークのユニホームを脱ぐことはまさに大事件だ。  もちろん、読売新聞社も球団も手をこまねいていたわけではない。松井のメジャー願望を察知した数年前から引き留めに動いた。00年は8年60億円を提示。FA権取得前年の01年は5年50億円に加え、将来の監督手形まで振り出したとされる。松井は「1年ごとに勝負したい」と首をタテに振ることはなく、史上最高年俸の6億1000万円(推定)でサインすると、翌年取得するFA権の行使を明言。「巨人のユニホームを着るか…、アメリカに行ってみるか。二者択一です」とメジャー挑戦の可能性を口にした。複数年契約を断られた土井誠球団代表は「単年契約になって非常に残念」と肩を落とした。  02年シーズンは原新監督の采配も注目されたが、最大の関心事は松井の去就。全マスコミはその言動を徹底マークした。記者を含めた本紙の松井番3人は毎日の現場取材や時には食事して胸の内を探ったが、確証をつかむことはできなかった。微妙な言い回し、質問への反応から「残留で決まりだな」「やっぱり、メジャーか…」と翻弄され、4月、5月、6月…と時間だけが過ぎた。  巨人がセ・リーグを独走していた8月、読売関係者から気になる発言があった。「松井がビジターのユニホームの表記を『TOKYO』から『YOMIURI』に変更したことに不快感を示しているらしい。弱ったな…」。

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(2020/07/05)