珍場面続出!試験放送時代を語った久米明さんと中村メイコさん 巨星こぼれ話(夕刊フジ)

【リンク先抜粋】
 【テレビ黎明期支えた 巨星こぼれ話】  約4年前から日本のテレビ黎明期を知る人たちの取材を続けてきた。中でも一番古い時代を語ってくれたのが中村メイコ氏と久米明氏だった。  日本のテレビの始まりは1926(大正15)年、ブラウン管に「イ」の文字を映し出すことに成功した高柳健次郎氏に始まる。これは世界初の快挙。現在の静岡大学の助教授だった高柳さんはNHKに請われ、東京・世田谷砧の放送技術研究所でテレビ技術開発に取り組む。  40(昭和15)年に予定されていた東京オリンピックの放送を目指して実験が続くが、第二次世界大戦でオリンピックは幻に。この辺りは昨年の大河ドラマ「いだてん」でも描かれていたので、ご記憶の方も多いかと思う。  戦後の混乱を経て、試験放送を続けたNHKが53(昭和28)年2月1日、ついに日本初の本放送を開始。当時のニュースフィルムには「いよいよテレビ時代来る!」と看板を掲げたボンネットバスがほこりっぽい東京の道路を走る様子が記録されている。約半年後に開局する初の民放、日本テレビの建設予定地は麹町の原っぱだった。  当時、名子役だったメイコさんと、劇団の俳優でラジオにも多数出演していた久米さんとでは年齢的には違いがあるが、テレビの実験・試験放送の記憶に共通点があった。ひとつは「カメラが巨大」だったこと。メイコさんの目には戦車のように見えたという。「実験」なのでスタッフは全員白衣着用というのも物々しいが、巨大なカメラにはズーム機能がなく、アップが必要な場合は俳優がカメラに近寄っていくのだった。  実験放送のスタジオの「熱」の記憶も共通する。ふつうの会議室を改造したような急ごしらえのスタジオは、天井が低く、出演者はライトの熱に耐えていた。  さらにスタッフが画面に映りこんだり、生放送中にスタジオに出前が届き、その声が入ったりといったハプニングは日常茶飯事。あるベテランの時代劇俳優から、いざ立ち回りシーンと思ったらセットの壁が壊れ、片手で支えながら芝居を続けたと聞いたことがある。  ご本人は「さすがに不自然だったね」と笑っていたが、不自然どころの騒ぎじゃなかったはず。でも、それで完走してしまうところが黎明期。そんな珍場面も見てみたかった。  ■ペリー荻野 コラムニスト、時代劇研究家。1962年、愛知県生まれ。大学在学中から中部日本放送でラジオパ

続きはこちら

(2020/06/30)