指揮権発動から8カ月、長期政権に幕:戦後初期、内閣が倒れた二つの疑獄事件(6)(nippon.com)

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「(指揮権発動を法相に命じた)吉田君(首相)はもはや常識を失われた。吉田君はこの議場において、正気であるか、乱心しておるかを表明せられたい」 汚職事件での佐藤幹事長の逮捕延期を犬養健(たける)法相が指示した指揮権発動の翌日(1954年4月22日)、参院本会議で緊急質問が出され、野党側は口を極めて政府を追及した。首相も負けずに反論した。 「検察庁に対してなした指揮権は、法律(検察庁法)に明らかに規定されており、法に従って発動したのだ」「私は政府に対する国民の信頼はいまだ去らずと考えるから…」と進退を検討する考えがないことを明言した。 翌23日には、参院本会議で「指揮権発動に関し内閣に警告するの決議」が賛成多数で可決された。「(今回の指揮権発動は検察庁法の)不当な運用と認める。捜査を困難ならしめ、ひいては国民の疑惑を深め政治の信用を失墜せしめることとなる。政府は、過ちを改め速やかに善後の措置をとるべきである」。政府に厳しく反省を迫る内容だ。 当時の国会勢力は、前年の「バカヤロー解散」(吉田首相が国会で質問した議員に「バカヤロー」と発言したことが発端で衆院解散となった)で、吉田の自由党が大きく議席を減らし、衆院定数466議席の過半数を割り込む199議席で少数与党に。鳩山一郎率いる分党派自由党や、保守系の改進党(重光葵総裁)の協力を得て国会運営を進めてきたが、鳩山も改進党も反吉田のため、議席を伸ばしてきた左派、右派社会党(当時、社会党はサンフランシスコ講和条約などを巡って左右に分裂していた)と組めば、いつでも政権が倒れる不安定な状態だった。 勢いに乗った野党側は同24日、吉田内閣不信任案を提出。しかし、不信任案賛成の改進党から採決欠席する24人の造反者が出て、228対208で否決された。保守合同で自民党が結成される1年前のことで、保守系議員は新党結成問題で揺れていた。内閣はこうして首の皮一枚でつながる。

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(2020/06/29)