ランボルギーニ・カウンタックの内装を手掛けていた工房を訪ねる──ブルーノ・パラテッリの職人魂(GQ JAPAN)

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ブルーノ・パラテッリ氏は、1941年生まれ。パラテッリ氏がランボルギーニに携わるようになったのは、1972年から。ランボルギーニの内装を手掛けることになったのは、カウンタックの市販化が決定してからである。 ランボルギーニの仕事は、パオロ・スタンツァーニ氏が直接パラテッリ氏の工房を訪ねてきたところからスタートした。 ベルトーネが製作したプロトタイプのカウンタックを見たスタンツァーニ氏は、このままの内装では市販化は無理だと判断し、パラテッリ氏を訪ねてきたという。プロトタイプのカウンタックのシートというのは、ボディにクッションが貼り付けてあるだけでリクライニングどころかスライドもできないシートだった。そこで、カウンタックのシートをデザインし、シェルの設計からパラテッリ氏が行ったという。 シートの幅は、通常のクルマだと56cmあるのに比べ、カウンタックは44cmしかなく、その点を苦心したとパラテッリ氏は語ってくれた。 パラテッリ氏によるとスタンツァーニ氏は、サンタアガタ・ボロネーゼ周辺のカロッツェリアなどに仕事が回るよう働きかけていたらしい。パラテッリ氏のところにカウンタックの内装を手掛ける仕事の依頼も、そうしたスタンツァーニ氏の地場産業を守ろうとする姿勢の一環だったのである。 技術者としてのスタンツァーニ氏は、数多く語られることはあるが、こうした一面がメディアで語られることはあまりない。かつてスタンツァーニ氏をインタビューした時に感じた、彼の優しい側面に改めて触れた思いであった。 パラテッリ氏の工房を訪ねたとき、すでにスタンツァーニ氏が逝去したあとだったということもあり、スタンツァーニ氏の話になると、パラテッリ氏は何度も胸をつまらせ、涙を拭っていた ランボルギーニからまとまった仕事を依頼されるようになったパラテッリ氏は、スタンツァーニ氏の気持ちに仕事で応えようとますます精進したそうだ。地元の人たちからスタンツァーニ氏が、心から慕われていた様子を窺い知ることができるエピソードである。 仕事が増えたことで、より広い敷地の工場に移転したり、大勢の職人を雇ったりするようなことは、パラテッリ氏はしなかった。あくまでもこの工房でできるだけの仕事を請け負い、品質を落とさず満足のいく仕事をすることにこだわったそうだ。当時のランボルギーニの生産台数は、家内制手工業レベルで間

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(2020/06/27)