近鉄・中村紀洋のFA宣言で巨人、阪神、メッツが大争奪戦 疲れ果て近鉄に残留「そっとしておいてほしかった」(東スポWeb)

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【球界平成裏面史(61) 近鉄編(2)】平成14年(2002年)オフ、球界は移籍市場が活発だった。当時、巨人の4番だった松井秀喜(現ヤンキースGM特別アドバイザー)がメジャー挑戦を表明。その穴を埋めようと、巨人が最初に近鉄・中村紀洋の獲得に名乗りを上げた。さらに、チーム改革を模索していた阪神も参戦。移籍を前提にFA宣言した中村紀の動向に注目が集まる中、数々のドラマが生まれていくことになる。  未来を知る今なら、中村紀が近鉄に残留した結果を知っている。だが当時、そうなる確率は非常に低かった。そんな中、最初に可能性が消えたのが巨人だった。  1回目の交渉で4年30億円とも5年50億円とも言われたオファーをしつつ、前ヤクルト・ペタジーニとの交渉を並行。当時の渡辺恒雄オーナーは中村紀について「金髪を黒く」と発言したかと思うと「金髪なんてさまつな問題」と黙認姿勢を示すなどブレブレだった。  程なくしてペタジーニの巨人入りが固まると、渡辺オーナーは「土下座してまで来てもらわなくていい」と豹変。  11月25日に行われた2度目の交渉が決裂すると「モヒカン、金髪はいらん。現場が欲しがるから黙ってた。本音を言えばああいうタイプの人間はいらん。いなくても勝つ(実際はリーグ3位でV逸)」と言いたい放題だった。  巨人からは実際、11月中の結論をせかされていた。だが、中村紀の元には予想していなかった米大リーグ・メッツからのオファーも届いていた。 「当時の自分はメジャーでの野球を想像すらできなかった。ただ、そこにメッツから話がきた。そんなオファーくるんだなと、正直思った。メジャー初の日本人内野手ということだったので、挑戦してみたい気持ちになった」  この時点で中村紀の心は半分以上、ニューヨークだった。前年には同い年のイチローが海を渡り、旋風を巻き起こしていた。自分もやってやろう。水面下で海外移籍にかじを切ろうとしている中、世間は中村紀に熟考する時間など与えてくれなかった。  特に地元関西では「阪神を選ばんなら、はよ返事せんかい」という空気が漂っていた。自宅には大勢の取材陣が押し寄せた。メッツとの交渉を進めつつ近鉄、阪神とも席を設け「お断り」の返事をする段取りをしていた。  そんな中、12月後半に差しかかるころテレビでニュースが報じられた。700万ドルの2年契約プラス3年目の

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(2020/06/27)