『国盗り物語』で描かれた斎藤道三の「美濃国譲り状」 なぜ、斎藤道三は娘婿に国を譲る決断をしたのか?【麒麟がくる 満喫リポート】(サライ.jp)
【リンク先抜粋】
「らしい?」
そう。この書状は残念ながら現存しない。しかし、おそらくこういう内容が書かれていたであろうと推測できる証拠はある。
道三は、この書状を信長に宛てて書いてまもなく、11歳になる末子の勘九郎に遺言状を書いた。こちらは後世に伝わり、現在でも見ることができる。
そこには、「美濃国の儀、終に織田上総介に存分に任すべきの条、譲り状を信長に対し、贈り遣わし候事」と書いてある。
美濃の国のことは、ぜんぶ信長に任すべきなので、(そのことを書いた)譲り状を信長に贈っておいた、という内容だ。
遺言状の日付は4月19日。道三が長良川の戦いに敗れ、生涯を閉じたのは、その翌日だった。この遺言状を見る限り、道三が美濃国を譲ると書いた書状を信長に送ったことを疑う理由はないだろう。
この「譲り状」を、はたして信長が読んだかどうかはわからない。信長のもとに届かなかった可能性もある。しかし、これまで支援を惜しまなかった舅殿の窮地を知った信長は、ただちに救援に駆け付けようと出陣。美濃の大良(おおら。現在の羽島市正木町大浦か?)に陣を布いた。
しかし、この時すでに道三は息子高政によって討ち果たされていた。高政は手を緩めることなく、ただちに信長勢に襲いかかった。斎藤高政という武将は、父に劣らぬ戦上手だったとみえる。激しい攻撃を受けた織田軍は劣勢となり、ついには信長自身が殿軍(しんがり)として退却を余儀なくされた。
せっかく舅の道三に「国譲り」の確約をもらっておきながら、信長はむざむざと引き上げてしまった。信長が桶狭間の戦いに勝利し、一躍その名を天下にとどろかせたのは、4年後の永禄3年(1560)のこと。
まだ信長には、美濃一国を譲り受けるだけの力はなかった。
信長が道三との「約束」を果たし、美濃を手中に収めたのは永禄10年。道三の死から、実に11年ものちのことだった。